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クレーマーの多い料理店

本稿は筆者がある人から聞いた、料理店での少しぞっとする体験談を分解し、短編小説として再構成したフィクションです。

話を聞いてうっすらとピーター・グリーナウェイ監督「コックと泥棒、その妻と愛人 The Cook, the Thief, His Wife & Her Lover」という古い映画を思い出しました。

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北関東のとある地方都市に、新鮮な無農薬野菜を使ったフレンチを手ごろな価格で提供する料理店がありました。レンガ造りの瀟洒なたたずまいのその店は、県道から入り組んだ田舎道を進んだ先のわかりにくい場所にありましたが、ランチタイムには周辺に住む女性客やグループでにぎわい、夜は同窓会やイベントなどでよく貸切られていました。


G夫妻は知人の紹介でその料理店を知り、以来よく訪れていました。彩り豊かなサラダにあしらわれた味の濃いルッコラや、アイスプラントという珍しい野菜を見つけては楽しみ、メインに付け合わされた根菜や自家製パンの味わいに感激し、気づけばその料理店の常連客になっていました。


その料理店は社長、男性のシェフと女性のフロント係がひとりずつ、ホールスタッフの男性2名とアルバイトで入る女性数名で切り盛りしていました。ランチは全席が予約で埋まることも多かったので、たいていはフロント係が厨房の手伝いに入り、社長がフロントで会計業務をこなしていました。


常連の女性客が多かったのは、単に料理が美味でリーズナブルな料理店だからという理由だけではありませんでした。ホールスタッフのTさんという男性が非常に魅力的で、彼に惹かれて来店している女性が多くいたからでした。年齢は40前後。背が高く細身で姿勢が良く、端正な顔立ちで非常に生真面目な仕事ぶりでした。もうひとりのホールスタッフは、耳にピアスをしてにこやかに軽口を叩くやんちゃそうなMさんで、Tさんと同じ年頃でした。


G夫妻は度々食事をしながら、高級な什器をしつらえた内装や、頻繁に見かける顔の常連客、それに2人のホールスタッフの様子を眺めていました。Mさんがおどけた仕草でが老若男女問わず客を楽しませる一方、Tさんがテーブルにやって来ると、とたんに女性が顔を真っ赤に染める光景を目にすることがありました。

G氏はそうした場面を気に留めませんでしたが、G夫人は興味津々といった様子でした。そしてTさんが女性客の心を惹きつけてやまないのは、整った容姿に加えて、その不可思議な態度にあると分析していました。愛想のない冷たい表情で、黙々と料理を運ぶ横顔は傲慢さすら感じられましたが、女性客に話しかけられて振り向いた途端、相手の目を奥をのぞき込むように見つめるので、女性が恥ずかしそうに目を逸らすのは珍しいことではありませんでした。


ある日G夫妻は、隣席の2人連れの女性客が急に声をひそめて何やら料理店のことを話しているのに気づきました。G夫人が耳に神経を集中させて聞き取った断片的な会話によれば、最近ある常連客がマナーの悪い女性客に腹を立てて料理店にクレームをしたようです。その女性客はどうやらTさん目当てで毎週末通ってきているのだと女性たちは険しい表情で話していました。よく聞き取れない箇所もありましたがその話の結末は、クレームをした常連客がその後ぱったり来店しなくなったということでした。


その日G夫妻は、コースの一品のビーツのポタージュがひどく塩辛いことに気づきました。1さじ口に入れて眉をひそめ、もう1口目で顔をしかめ、G氏はそれでも何とか飲み干しましたが、夫人はそれ以上は口にすることができませんでした。そこへホールスタッフのMさんがやってきました。


「あれ、Gさんポタージュ召し上がらないんですか?どうかしましたか?」

Mさんは愛想は良いけれども深慮を欠く一面があって、客が残した料理は黙って下げるのが心得であるべきところ、核心部分に突っ込んでしまったのでした。G夫人が気まずそうに、今日は何だか少し塩気が強く感じるのでちょっと、と小さな声で伝えると、Mさんは失礼いたしましたと慌てて皿を下げました。


G夫妻はその出来事の後でも以前と変わらぬ頻度で料理店に来ていましたが、店内をよく見ていると、これまでよく見かけた常連客の姿がなく、客の数も明らかに減っていることに気づきました。そして隣席の客がひそひそと話をしていたマナーの悪い女性客が誰なのかは、間もなく分かりました。青白い、化粧気のない顔の、髪の長い40才ぐらいの女性客で、毎週土曜日か日曜日に来て、ランチタイムの11時から15時までずっと店内に居続けるのでした。Tさんが店内でせわしなく仕事をしている間ずっと、うっとりとした目でその姿を追い続けたり、時折話しかけてはキャッキャッと歓声を上げていました。その様子を見たG夫人は夫に目配せをし、状況を察知したG氏と互いに苦笑するばかりでした。


それから2か月ほど経ってG夫妻が次に来店した日は、今までになく極端に客の少ないランチタイムでした。Mさんの姿はなく、Tさんがひとりで店内を切り盛りしていました。G夫妻はTさんにオーダーを告げると、窓の外の晩秋の景色を眺めていました。静寂を破って突然、けたたましい女性の笑い声が響いたのでG夫妻が驚いて背後を振り返ると、例の女性客がG夫妻のテーブルの横に立ち尽くして、Tさんに向かって手を振りながら満面の笑顔を向けていたのでした。


G夫妻はこの時ばかりは、Mさんなり社長なりが女性に対してやんわりと諫めることを期待していました。しかし、社長の姿はなく、Tさんは歓声をあげながら長い髪を揺すってはしゃいでいる女性の傍で、以前からG夫人が観察していた通りの、いたずらそうな笑いを口元に浮かべながら女性の顔をじっと見つめていました。女性はいっそう喜び、またしても立ち上がると、テーブルと椅子を整えるTさんを手伝おうと、同じことを始めました。


店内の大騒ぎに気を悪くしたG夫妻が食後のコーヒーを飲み終えて会計を済ませるためフロントに向かうと、ちょうと社長が奥から戻っていました。フロント係は相変わらずシェフの手伝いで厨房にかかりきりのようでした。G夫人は少し興奮した様子でに社長に向かって、店内ではしゃいでいる女性客についての不快感を婉曲に伝えました。


「いや、困ったお客様ですね。実は、私も度々Tとは話し合っているのですが、どうにも対応に困っておるところでして。」


「そりゃ接客業ですからTさんとしてもあんまり不愛想にするわけにもいかないかとは思いますが、Tさんがにこにこされるので女性の方、余計に調子に乗ってしまっているようにも見えますが・・・」


そんなやりとりがあってから次に料理店に来店した時、G夫妻は着席してすぐに異変に気づきました。軽率なところはありましたが陽気で明るい空気を作っていたMさんは、辞めていなくなっていました。アルバイトの女性たちは皆、G夫妻の姿を見ると、さっと顔をこわばらせて避けるように通り過ぎていきます。ただひとりのホールスタッフとなったTさんがG夫妻のテーブルを担当することになりましたが、オーダーを聞きに来るなり、あふれる怒りを抑えていると言わんばかりの形相で睨みつけたので、G夫妻は戸惑うばかりでした。

店内の異様な雰囲気に包まれて、終始つっけんどんにTさんがサーブする料理を、G夫妻は取調室で出された弁当を食べる被疑者のような気分でどうにか最後まで終えました。数メートル離れた客席から、ちらちらと視線を送って来る中年の夫妻がいて、G夫人と目が合いそうになるとあからさまに逸らすのも感じが悪いと夫人は思いました。夫妻はデザートにほとんど手を付けず、そそくさと席を立ち、会計に向かいました。Tさんはフロアの隅からその様子を横目で一瞥しただけで何も言いませんでした。


その日、社長は不在で、いつもは厨房に入っているフロント係がめずらしく本来の業務に就いていました。年齢は30代後半でしょうか、太って元気そうなフロント係はそれまで快活な声であいさつをするごく普通の女性でした。けれどもその日はあいさつもなく蛇のように目を細めて、冷笑を浮かべているのでした。気まずい思いで会計を済ますとG夫妻は店を後にしました。


背筋が泡立つような不快感から、G夫妻は料理店をその後訪れることはありませんでした。けれども自分たちの経験した不愉快な出来事を時々振り返っては、どうしてあれ程の冷遇を受けなければならなかったのか見当もつかないのでした。


それから1年ほど経ったある日、G夫人は海外留学に旅立つ姪の見送りで羽田空港に来ていました。余裕を持って家を出たので待ち合わせより早く到着し、ターミナル内をぶらぶらとした後、カフェで時間をつぶしながら何気なく店内を眺めていました。


その時、耳にキラリと光るピアスをしたアロハシャツを着た男性が目に入ってきました。そのいで立ちのせいであの料理店でホールスタッフをしていたMさんだと気づくのに10秒くらいかかりましたが、G夫人は思わず立ち上がり声を出していました。


「Mさん!Gですけども!」


最初怪訝そうな顔をした男性は、顔を見てすぐ思い出したのか右手の指をパチリと鳴らしました。

「ああ、お久しぶりです。」


そう言ってボストンバッグを片手に、軽い足取りでG夫人の席まで歩いてきました。G夫人はもうあと1時間ほどここで時間をつぶしているのだとMさんに伝えました。


「Mさん、あの料理店を急にお辞めになったんですねえ。実は、我が家ももうすっかり行ってないんですけどね。」


G夫人が急かすようにそう話しかけると


「辞めましたよ、辞めて当然ですよ」


Mさんは憤慨した表情で言います。G夫人がテーブルの向かいの席を勧めると、


「これからハワイに行くんであんまり時間ないんですが、せっかくだから少しだけいいですか?」


そう言って椅子に座り、G夫人があの料理店で冷遇された理由がわからないと訴えるのを一通り、黙って聞いていました。それからおもむろに話し始めました。


「Gさん、あの頃、T目当てに来店して騒いでいた女性のことで社長に話したじゃないですか。あれは決定的にまずかったんですよ。何のことだろうと思われるかもしれませんが・・・」

それからMさんはふっとため息をついてから続きを始めました。

「あの店はね、すべてを支配しているのは社長じゃないんです。社長といっても雇われ社長ですし、オーナーは東京にいてめったに来やしません。それに何も口出ししません。で、社長は気が弱くって、ずっと支配者の言いなりですよ・・・」

G夫人は泡立つような苛立ちを感じていた。

「誰の言いなりなんです?誰なんですか?その支配者というのは。」

「フロントのEさんですよ。あの日、Gさんが社長と話をして帰られた後、社長はEさんにそのことを全部話したんです。そうしたら彼女、火のように怒りだして・・・」


フロント係のEさんはその足でスタッフ控室に向かい、Tさんや他のアルバイトの女性たちの前でG夫妻はモンスタークレーマーだと大騒ぎしたというのです。Tさんが女性客の気を惹くような態度を取っているとクレームをつけてきたのだと言いました。それを聞いたTさんは顔色を変えて怒り出し、自分はあのしつこい女性客のせいで心底嫌な思いをしているのに、G夫妻は何という悪質なクレーマーだと吐き捨てたということでした。


「私どもは社長にそんなことは言っていませんよ。Eさんはどうしてそんなひどいことを言ったんでしょうか?」


G夫人はまるで心当たりがなかったので、不思議でたまりませんでした。


「理由は3つありますね。ひとつめはね、あの店で何か不満を言ったお客さんはみんなクレーマーということにされるんです。Eさんは文句を言う客が許せないんですよ。Gさんの前にも大勢いましたよ。モンスタークレーマー扱いされて嫌な思いをして二度と来なくなったお客さんは。2つめの理由は、TはEさんのお気に入りだったってこと。あいつに惹かれてたの、女性のお客さんだけじゃなかったってことですよ。まあ男前だもんね、Tは。Eさんは狙っていたんです、彼のこと。だからTのことでGさんに言われたのが入らなかったんです。もうひとつの理由は、Gさんと僕なんですよね。」


G夫人は言葉が出ませんでした。目を丸くして目の前のMさんを眺めるしかありませんでした。


「以前Gさん、ポタージュが塩辛かったことあったでしょ?あれ僕、厨房に持って帰ってシェフに伝えたんですよ。それは務めじゃないですか。お客様が飲めない位塩辛いポタージュなんです。そうしたら2人とも怒り出して・・・」


「2人っていうのは?」


「シェフとEさんですよ。あいつらデキてるんですよ。2人とも既婚者ですけどね。だからいわゆるダブル不倫っていうやつです。でもその頃は僕も知らなかったんです。もし知ってたら黙ってましたよ、ホントに。で、シェフがポタージュが塩辛いって、どの客が言っているんだって憤り始めて・・・そういうことがあったから、Eさん、相当Gさんに対して憎しみ持ってたんじゃないかなあ。たかがポタージュの塩加減と言えばそれまでですが。プライド高いんですよ、あの人たち。」


「その2人の関係をMさんはどうやって知ったんですか?」

Mさんが語ったのは次のような内容でした。


ある日Mさんは退勤後、忘れ物をしたことに気づいて夜遅く職場に取りに戻ると、厨房から激しい男女の言い争いの声が聞こえてきました。思わずひるんだMさんが通路の隅で身を固くしていると、今度は皿がガシャーンと割れたり、金属音のようなものが聞こえてきました。何が起きているのかと気が動転しながらも控室から厨房をそっと覗いたMさんが見たのは、刃渡り30センチほどの包丁を手に握りシェフに向かって何事か叫ぶEさんの姿でした。それが痴話げんかだとわかるのに時間はかかりませんでした。Mさんは忘れ物もそのままにして、逃げるように駐車場に戻り、車を出しました。


「その時引き返したところを見られちゃったんですよね、僕。あの2人に。秘密を知られたEさんが僕のこと、そのままにしとくわけないじゃないですか。とんでもない目に遭うな、とすぐ思いました。ああ、そういえば知ってました?あの料理店の先代のシェフ、Eさんが辞めさせたんですよ。コスト意識がないとか難癖付けて、あることないこと社長に吹き込んで・・・それで追い出した後、あのシェフが来たんですが、まさかEの愛人だったとはね。上手くやって不倫相手を後任にしたというわけです。僕はあの後きっぱり自分から辞めてやりましたよ。ほんとにあんなクズな店・・・」


「皆さんあの後どうなったんでしょうね?Tさんとあの女性のお客さんはどうなったのかしら?」


「あそこのバイトはみんな辞めて、Tも辞めましたよ。だからあのお客さんももう来てないでしょうね。それか、今もTのことどこかで追っかけてるかもしれないけど。シェフとEさんはまだいますよ。辞めるわけないじゃないですか。だってあの料理店は彼らの愛の巣なんだから。」


最後の「愛の巣」というところを、さもおぞましいというように強調してMさんは話を締めくくりました。話を終えると急にさっぱりとした表情に切り替わり、G夫人の知っている陽気な空気をまとわせて別れを告げると、ハワイに旅立っていきました。


その夜、いささか興奮気味で少し殺気さえ漂わせた夫人の話を聞きながら、G氏はようやくあの料理店で何があったのかを理解しました。改めて当時の何とも言えない不快感と、取るに足らない小さな謎を残したあの出来事でしたが、ようやく今、喉の奥に刺さったままの小骨が取れたような気分になりました。


その後何年か経ち、G夫妻は料理店やTさん、髪の長いあの女性、それからシェフとその愛人のことを思い出すこともほとんどなくなり、夫婦の会話に上ることもなくなりました。そしていつしかその料理店の経営者が代わったことや、今もなおシェフとEさんだけはあの料理店に残り続けている事実を知ることはありませんでした。


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