見出し画像

ヴィパッサナー瞑想体験記Day5 ~10日間で最も地獄の1日~

ヴィパッサナー瞑想も半分に近づいてきました。
もう意識はふらふら、体はくたくた、心はまた瞑想の連続が始まるとどんより厚い曇り空。

そうしたなかで、早朝4:00に起床してストレッチを入念に、そして洗顔してスッキリし、4:30からの瞑想を開始・・・したのですが。。。
1時間だけして意識がクラクラして、ベッドで布団をがっつりかけて寝てしまいました。。。

というのも、普段の私は布団に入るとすぐ寝て朝まで熟睡できるのですが、ヴィパッサナー瞑想にきてからは、ぐっすり気持ちよく6時間睡眠できたのは初日だけ。
2日目以降は毎日変な夢ばかり見て、深夜の1時や2時にばっと目が覚めてしまい、そこからまた寝るのに1時間かかったりと、2日目~5日目の朝までずっとそれが続いていました。
今まで夢なんて一切覚えていないのに、ここにきてからというと毎日見ている夢をハッキリと覚えていて、その夢にも振り回されて睡眠時間が削られる連続となっていたのです。(と、早朝の瞑想をサボってしまった言い訳を必死にしている自分。。。)

また心が暴れ出す

3日目、4日目と体の苦痛は置いておき、心の雑念に関しては比較的落ち着いて集中しながら瞑想を実践できていたのですが、5日目にして、午後一の瞑想から急に心が暴れ出して瞑想ができない状況に。

目をつぶり、意識を研ぎ澄まさせて体の様々なところの微細な感覚を感じようとすると、急に内側から不安な思いが溢れてきて、「どうしよう!」「どうしよう!」といった気持ちに振り回されるように。

「今何を思ったところで、電子機器もノートもない今の自分にできる現実は瞑想に集中することだけでしょ!」「そのために10日間もコミットしにきているのだから、今この瞬間の現実に向き合え!」と自分に発破をかけて意識を集中させようとするものの、漠然とした不安な思いが溢れてとまらない。

自主瞑想タイムはもう瞑想することを一旦とめて、「一体自分は何に執着しているのか?」「何に恐れているのか?」に意識を向けることにしました。
キャリアの不安であったり、繋がりの不安みないなものがあふれ出てきて、何かしたいときに誰も何もないとしたらの孤立感や、その結果自らのやりたいことを手放して無機質に生きることのシーンなどが浮かび上がり、そこにしっかり向き合う内省の時間を設けました。

「ヴィパッサナー瞑想は心の手術である。傷口を切ることによって、心の膿が湧き上がってくる。心の膿とは無意識の奥底にある汚れ、汚濁。それが瞑想中に葛藤や苦痛や様々な「感覚」として表出する」というのをまさに実感しました。

繋がりもまた無常である(生まれては消える)

これまでの講義の中でも「全ては無常であるという真実。生まれては消える、生まれては消える、変化の事実の連続でしかない」というのは何度も何度もでてきました。無常だからこそ執着しても生まれては消えるものなのだと。

それは繋がりというものにも意識を向けていったときに、11月頭に参加したロバート・フリッツ氏の「創り出すリレーションシップ講座」で得た学びが結びついてきました。(この講座はフリッツ氏が最後の来日講座でもう開催されることはないのかも)

この講座のなかで、「どんな人も自分からの期待に応える義務もないし、自分自身も他の人からの期待に応える義務はない」「期待の糸を断ち切る」ことを行い、それから抜けたうえでそこから創り出されていくリレーションシップに委ねていくというもの。
響くものがあったものの、これってすごい難しいことだよなぁ、、、まさに創造の繋がりの光を感じるものの、いざ体現しようとするとというのが正直な感想でした。

ただ、このヴィパッサナー瞑想をやっているなかで、「全ては無常である」ということが自分の中でもほんの少しずつ染みこんできたようで、「繋がりは無常」ということを実感するようになってきました。だからこそそこへの執着が薄らいでいくことに。(今親しい人たちとの繋がりも無常、永遠なる常はない)

それを実感できるようになってきて、無常だからこそ、「一瞬一瞬、今その瞬間にある繋がりの大切さ」を大切にすることができるんだなぁと。それこそがまさに創り出すリレーションシップなんだなと。

もう一つ、「川の水は、毎日同じ川という風に見えるがそこを流れる水は瞬間瞬間別物である」という観点も踏まえると、私たちは関わる人(特に接する機会が多い人)を、「同じ人」であると捉えているけど、その人その人も瞬間瞬間変わっているものと捉えると、また新しい可能性が見えてくるなぁと感じました。(あの人はいつもそうだ!って本当??)

「強い決意の瞑想」スタート・・・

1日に3回あるグループ瞑想(8:00~9:00、14:30~15:30、19:00~20:00)について、一切動いてはならないという新たな決まりが発動されました。

これまで辛くなると体育座りをして、一度リセットしてからもう一回座り直すことができていたのに、この3回の瞑想時間は、それが許されない・・・
これ、本当に辛いんです。本当に辛いんです。。。もう心臓がぎゅーって締め付けられるくらい、とんでもない激痛が脚からやってくるんだけど動いてはならない。歯を食いしばって歯茎が痛くなるくらい。

このシーン分かる方いるかなw

憂うつ度が一気に駆け上がるこの「強い決意の瞑想」。
この体験をするのが分かっているのに、それに1日3回も向き合わないといけない。「なんでこんな思いをしなきゃいけないの!!」という思いがあふれ出てきました。。。もう帰りたい・・・

5日目講義(一部)

座禅で苦痛が生じることだろう。でも痛みから逃げてはならない。
人生の本質の一つは、「人生に苦しみは無くならない」ということ。
人生は、生まれてから死ぬまで、病をはじめ、様々な苦しみに満ちている。それが現実である。
生徒が「先生!この瞑想法は非常によいものです。本当に人生の役に立ちます。でもあの1時間の瞑想だけはなんとかなりませんか!!あれだけはひどいです」と言うことがあります。
30分までは平穏に瞑想をできるでしょう。でも30分を過ぎたあたりから痛くなりなんとか我慢できるものの、45分からは「拷問だ!!」「お願いだ、早く終わってくれ!」「指導者は時間を見てないんじゃないか!絶対1時間過ぎている!!」「タイマーセットしてないんじゃないか!!」という思いが溢れて平静をよそおえなくなることだろう。

こう思ってしまうのは、「痛み」の感覚を「私の痛み」と捉えてしまうからです。痛みに「私の」がくっついてきているのだ。

強い痛みが生じて病院で診察してもらうこともあるだろう。本人は痛みで取り乱していても、医者は冷静に痛みはどこで生じているのか、どこまで広がっているのかを見て診断する。
それと同じように客観的に自分の痛みを観察すること、そしていかなるものもアニッチャ(生まれては消える、無常である)ということを理解し、平静に受け止めることが重要なのだ。

体の痛みに「痛い!!」と反応してしまうと、「体の痛い」という現象に対して、「心の痛み」を上乗せしてしまい、より痛みを感じることになる。
客観的に自分の痛みの感覚だけを観察することができれば、心の痛みが生じることはないので、受け取る痛みも減っていく。

人生に苦しみは多く起きるものでもある。
そうした中でも平静でいられるかの訓練である。頭で理解しているだけでは意味がない。瞑想を通じた実践で、自らの身をもって実際に体感し、その経験から知恵とすることが重要なのだ。
どれほどの強い痛みが生じようとも、それは無常であり永遠に生じるわけではない。不快な感覚にも執着してはならない
無意識の心の奥にある汚れ、汚濁は、体の感覚を常に感じ取っている。それが快な感覚なら渇望し、執着する。
不快な感覚なら、嫌悪し、憎しみ、取り除くことに執着する。
そうやって無意識の奥底にある心の汚れが、反応という形で現われてくる
それが心の癖なのだ。何十年もし続けている心のメカニズムなのだ。そこから抜け出さないといけない。
全ては生まれては消える、そのことを理解すれば執着しない。平静を保て、完璧な平静を保つのだ。

人生の苦しみの真実の一つが、
「欲するものを得られないとみじめな気持ちになる」ということ。
だから執着が生まれる。そして最も執着が生まれるのが「私」というもの。
「私」とは一体何を指しているのだろう?
物質体がなくなれば私が無くなるのだろうか?意識がなくなると私が無くなるのだろうか?認識?感情?反応?
どうやらこれらの集合体を人は「私」と言っているようだ。素粒子の塊にすいない、単なるバイブレーションとさざ波に過ぎないのだが。
この「私」に執着することに加えて、そこに「私の!!」「私のもの!!」という思いがより「私」を膨張させる
自分が愛着を持っている物を汚される、壊されると強い嫌悪や失望、ショックを受けて苦悩する。「私のが・・・」「私の物が・・・」と。

そうして執着する範囲が拡大していくのだ。執着の範囲が広がれば広がるほど、それが失われた時、人は苦しみが生じる。
自然の真理は無常、生まれては消える、常なるものなどないのに。

講義の話しを聞いて湧いてきたイメージ図
例えば「愛車」のように自分の思い入れが強くなればなるほど、「私」と同一化していき、愛車が例えば駐車場の目の前で理不尽に他の車が突っ込んで大破し無残な形となったとしよう。そうするとその人は胸が張り裂ける思いと数日・数週間・数ヶ月苦悩するかもしれない。
執着する範囲が広がれば広がるほど、失ったときの苦悩の量が増え続けていく。

私たちは、意識があり、そこに認識が入って、そして感覚が生じる。
それが快の感覚ならもっとほしいもっとほしいとなり、そしてそれが失われると失望し、落ち込み、苦悩が生じる。
一方で不快の感覚なら、嫌悪し、憎しみ、相手を傷つけたり自分を傷つけ、それが苦悩となっていく。
これが心の癖である。反応してはならない。ただただ現実をあるがまま観察するのだ。客観的に、冷静に。

イメージにするとこんな感じかな。執着してそれが得られなかったとき、または得たけど失った時に「みじめさ」が生まれ、苦悩な人生に。または失うことを恐れ、必死に抗う生き方になることも
瞑想中にでてくる渇望や嫌悪の一例
いい感覚を渇望すると、それが無かったときに「今日はダメだ・・・」「自分は瞑想できないんだ・・・」と落ち込み、惨めな気持ちになっていく(苦悩が生まれる)
一方で、痛みなどの不快な感覚を嫌悪すればするほど、瞑想そのものが嫌になってくる。
この反応があることによって、瞑想が惨めな思いにさせるものになってしまう
快・不快の感覚に反応するのではなく、客観的にただただ観察するのみ
客観的に観察することによって、感覚がいかに無常であるかを理解できる(アニッチャ)
無常である、生まれては消える性質が自然の法だから、執着したところでいつかは消えるのみ
この性質を瞑想の体験から知恵にすることが重要。
どんな強い痛みであっても「いつかは生まれては消える」というのを体験から理解できていればいつでも完璧な平静を保つことができる

ゴータマ・シッダッタはこれらのことをヴィパッサナー瞑想を続け、自身の内なる真実の探求のすえ、生まれては消えるということを瞑想中の体験から気づいたのである。
他人の知恵から理解しても意味がない。頭では分かるだけでは意味がない。自分自身の体験から得る知恵が真実である。一生懸命瞑想に励め。
自らの体験でアニッチャ(生まれては消える)を理解し、完璧な平静さを保て。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?