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夢商人

 ”逃げる夢”という言い伝えがある。誰が追うのかは分からない。ただ、逃げきれなければならぬ。もし逃げ切れず捉えられれば、次は自分が追う側になり、次の誰かを捉えるまでその夢に囚われ続けるのだという。

 平成n年6月下旬、どうやら娘は、それに囚われた。

 娘の身体は寝台に横たわったまま動かず、肺と心臓だけが律動している。夢に囚われた精神を取り戻し、妹を再び蘇らせるには、たった一つだけ手段がある。
 他の誰かを代わりに夢に捧げる。

 男は、意を決していた。

「準備はできました。ただし、安全は保障できませんよ」

 店員が言って、男は頷く。覚悟はできている。男はこの店員の手を借り、娘の夢に入り込む。

 その夜、月が空の真上に位置した頃、男は娘の隣の寝台に横たわった。目を閉じると、店員が澄み渡る鈴の音を響かせた。男と娘の精神を同調させるものだ。瞼が重くなり、意識が沈んで水中の感覚を覚え、男の意識は形も残らぬほど溶けた。

 気が付くと見知らぬ場所に立っていた。黒い壁でできた廊下だ。窓もドアも照明もなく、時計も絵画もかかっていない。進むほどに分かれ道に出会う。左右の分かれ道だけではない。上下左右、薄明るい黒い廊下は全方向に道が分かれている。床も天井も定まらず、体は水中を漂うような浮遊感があった。
 まるで水中の迷路を泳いでいるようだ。

 こんなところに囚われ、さぞ心細かっただろう。父さんが連れ戻してやるからな。

 しかし、娘が現れぬ。隠れているのか、それともこちらの居場所を悟りかねているのか。娘よ、早く追いに来い。お前が俺を捉えなければ、お前はこの夢に囚われ続けてるのだろう。こちらから追うわけにはいかない。囚われた物が夢を見ているものを追うという構図がこの夢のルールであり、娘を救う条件だ。

 男は歩き続けた。進み続けた。追ってはならんが、見つけねばならぬ。娘を救うためにここに来たのだ。退いてなるものか。進めども進めども変わらぬ黒い廊下。もはや前後も上下も分からぬ。自分がどこにいて、どこまで進んだのかもわからぬ。何時間歩いただろうか。あるいは、何日、何週間、何か月も進んだのかもしれぬ。ここは夢の世界。すでに寝ているゆえ、疲れることも休むこともできない。

 だがそれでも男は折れなかった。進み続けた。必ず娘を救うのだ。もうすでに苦しいというのに、娘はもっと長くこの夢の世界にいる。娘の方がつらいのだ。

 男は進み続けた。薄れゆく意識の中で娘を探し続けた。


「いかがでした?」

 寝台から起き上がると、店員は言った。少女は答えた。

「父が来た瞬間気付きました。父の意識がはっきりするより先に父を捕まえ、夢の世界に閉じ込めました」

 少女は寝台を降りて靴を履こうとすると、体がふらついた。妙な眩暈を感じる。

「しばらくはお体に不調があるでしょう。ご無理なさらず」

 店員が言った。しかし、少女は待てなかった。

「すぐに出発したいです。父を足止めしているうちに」

「やれやれ、お送りしましょうか?」

「結構です。それでは」

 少女は偽造された身分証明書を店員から受け取り、店の裏口から外に出た。

 父は与えてくれなかった、誰にも縛られない生活。ようやく自分の物になる。やっと自由だ。

 梅雨の重く厚い雲が月明かりを閉じ込めている。圧し殺された月光が、僅かな切れ目から地を照らしていた。

「ご利用、ありがとうございました」

 店員が見送りながら言った。これはとある商人が、若者から悪夢を買い取り、まだ見ぬ夢を売った記録である。

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