界のカケラ 〜74〜

 私たちの様子を代弁するかのように、気持ちの良い風が私たちを包んでくれていた。今までフリージアの香りは強すぎて苦手だったけれど、心境の変化からいつの間にか好きな香りになった。

 もう少しこの香りの風に包まれていたい。

 そう思ったが市ヶ谷さんと話さなくてはならない。太陽が日々高くなり陽が伸びてきているとはいえ、夕方に近づいているので風もそろそろ冷たくなってくるため生野さんの年齢には負担が大きい。早めに切り上げて病室に戻さなければいけない。生野さんとは話は一応終えているので、市ヶ谷さんと話して中庭から誘導しようと決めた。

 「市ヶ谷さん、気分はいかがですか?」

 「はい。なんだか心がスッキリしていて、今まで感じたことがないくらい体が軽いです。なんだか夢を途中から見ていたようで、昔大好きだったお姉ちゃんが出てきて、色々と話ができたんです」

 「そうでしたか。急に様子がおとなしくなったので何が起きたのだろうかと心配していました」

 これは嘘である。しっかりと二人のやりとりを聞いていたし、その場を作った張本人は私だ。しかし嘘も方便というので、この場合の嘘は誰も不幸にしない幸せな嘘だ。本当のことを話しても信じてはくれまい。ならば夢ということにしておいたほうが彼にとって理解しやすいし、そのまま思い込んでくれるだろう。

 「お姉ちゃんが昔、私が事故に合いそうだったのを身を呈して助けてくれた。そのことがすっぱりと記憶になかったんです。でもお姉ちゃんが死んだことは覚えていて、お姉ちゃんを忘れないように私はしていたのに、周りの人は忘れていくことに憤りを感じていた。だから忘れることへの怒りと忘れるなら全て無意味と思っていった。

 でも、本当はそうじゃなかったってお姉ちゃんが言ってくれたんです。昔みたいに小さな私をあやす感じで、優しい口調で話してくれました。そして久しぶりに怒られました。なんだかその感じが本当に起きているようで・・・ 懐かしくて、あの頃に戻れた感じがしました」

 「話を伺っていると、お姉ちゃんのことが好きだった様子が見てとれますね。夢であったとしても幸せでしたね」

 「ええ、本当に。お別れの時に抱きしめてくれて、そのまま寝てしまいそうな柔らかさと暖かさでした」

 「そうですか。お姉ちゃんも市ヶ谷さんのことが心配で会いに来てくれたのかもしれませんね」

 「今の自分が恥ずかしいです。なんであんなことをしたのか。僕を命がけで助けてくれたお姉ちゃんの想いを踏みにじった行為でした。これからはこの命を大切に生きていきます。お姉ちゃんにもそう誓いました」

 「市ヶ谷さんって、もともとそうやって笑うんですね。顔色も赤みがさして良くなっていますよ」

 「そう言われると照れますね。顔色も変わったと聞けて嬉しいです。体も軽いし生まれ変わった気分です。今までのことが嘘のようです。気持ちも真向きになったし、目の前も明るくなりました。四条さんと生野さんにお会いできなければ、きっと今のこの気分は味わえなかったでしょうね。ありがとうございます」

 「いえいえ。私たちは何も。ねえ、生野さん?」

 「ああ、そうだよ。そう思えるようになったのは市ヶ谷さんがそうありたいと思えたからだ。どんなにいい言葉を並べても、本人がその気でなければ変わらないからな」

 「そうであったとしても、今日この場でお会いできて話を聞かせていただいて、失礼がたくさんありましたけど話しをしていて自分を見つめ直すことができました。本当にありがとうございます」

 そう言って立ち上がり、私たちに深いお辞儀をして病室へ戻っていった。その深いお辞儀は深鈴さんと瓜二つで、きっと子供の頃の市ヶ谷さんは、いつも深鈴さんの礼儀正しい深いお辞儀を見ていたのだなと思った。そばにいる時間が長ければ行動も言葉も自然と似てきてしまうものだ。私はこのことにさらに幸せを感じていた。

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