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界のカケラ〜89〜

 今日は朝から疲れる日だ。まさか工藤さんが来るとは思わず、おかげで時間も余計にかかり、もう九時を廻っていた。これからあの人の病室へ行くことにしているのに先が思いやられる。今の状態で行っても良いことは起きそうにないだろう。少し休憩してから気分を一新するのが正解だ。

 休憩のお供は昨日、深海さんが持ってきてくれていた神奈川限定店舗のチョコクッキーにした。パッケージがお化けのデザインで外装も内装もいろいろな表情や仕草をしているお化けで埋め尽くされている。何気にこういった可愛いデザインは好みだったりするので、一目で気に入ってしまった。肝心のクッキーは程よい甘さで、サクサクとした食感で香ばしさがたまらない。大きさも小さすぎず、大きすぎずで男性の口なら一口でいけるサイズだ。復帰後には職場の皆に迷惑と心配をかけたお詫びに持って行くこととしよう。

 このクッキーに合うのは深煎りしていない、少し酸味のあるグアテマラ産のコーヒーが一番だが、あいにくこの部屋にはその豆がない。それは退院後のお楽しみにとっておき、今日のところは冷蔵庫に入っているミネラルウォーターで我慢することにする。

 いつ食べてもこの食感と甘さはたまらない。気づいたらものの数分で三個を食べていた。これでは太ること間違いない。だが、そう思っていても手が出てしまうのは仕方がない。朝の出来事をリフレッシュするためにはやむを得ないことだと言い聞かせていた。

 しかし食べて続けてしまう理由はもう一つある。私を突き飛ばした患者にこれから会いに行くことにストレスと不安があるから、気を紛らわすために食べ続けてしまっているのだ。
 自分を怪我させた相手に会いに行くのは怖い。また同じ目に合うかもしれないし、今度は頭を打つだけでは済まされないかもしれない。それでも今話さないといけないような気がしている。退院して通常の生活に戻ってしまえば時間をとって話すことができなくなってしまうし、その患者のことを考えるとまた同じことをしてしまう可能性がある。だからこそ、今日のタイミングで話し合わなければいけないのだ。

 昨日の生野さんと市ヶ谷さん、ゆいちゃんと深鈴さんとの出来事は、私にとって背中を押してくれるものだった。不思議な体験をしたこともそうだが、それ以上に人が人を思うことの温かみを感じ取れたからだ。生きている人間だけでなく、魂が与えてくれたことの影響の大きさを知り、感じたから、私は毎日ためらっていたことに一歩踏み出そうと思えた。思えただけでなく、行動に移そうと思えた。しかしそれでも怖いことには変わりない。

 それでも勇気を持って、あの患者に会いに行き、何があったのかを聞き、その時に自分ができることを精一杯やる。無論、こんなことは医者のすることではなく、深入りし過ぎていると思われても仕方がない。が、それでも私にとっては重要なことであり、もしかしたらその患者にとっても転機になるかもしれない。

 私は覚悟を決めて五枚目の包みを開けた。これを食べ切ったらあの患者がいる病室へ向かおう。見上げた時計の針は十時を示そうとしていた。

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