見出し画像

雑感83:河童 他二篇

「河童」は,ある精神病患者の談話を筆録したという形で書かれたユートピア小説.ここに描かれた奇妙な河童の国は,戯画化された昭和初期の日本社会であり,また,生活に,創作に行きづまっていた作者の不安と苦悩が色濃く影を落している.脱稿後半年を経ずして,芥川は自ら命を断った.(解説=吉田精一)

*****

この芥川龍之介の『河童』を読んだ後に、どのようにネットサーフィンしたか覚えていないのですが、以下の記事に巡り合いました。

末尾に以下のような一節があります。

人間の精神のありようを捉えて、何を〈正常〉とし何を〈異常〉とするかは、ひどく難しい問題となってくる。だれの中にも心の癖とでもいうべき傾きはあり、それが突出して自分にとって、時に周囲の人間にとっても受け入れがたい状態となった時に、それが病と名指しされるのである。つまり、〈異常〉は〈正常〉から一線を画するような特殊な事態ではなく、あくまでも程度の違いであり、〈多数者正常〉の原則に基づいて反転してしまうことも十分にあり得るのである。だからこそ芥川のように、「ぼんやりとした」グレーゾーンを彷徨(さまよ)いながら、自縄自縛状態に陥ってしまうこともあるのだろう。

https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n306/n306015.html

ちょっとこの記事を読んで思ったことを今日は雑記します。

正常と異常の境界

「だれの中にも心の癖とでもいうべき傾きはあり」

・・・まさにそう思いました。筆者の意図と同じか分かりませんが、何かの琴線に触れると感情がコントロールできなくなる人、うっかりモノを落としやすい人、何かに没頭すると周りが見えなくなる人、じっと座っていられない人・・・様々な「心の癖」、それに伴う「行動の癖」なるものは大なり小なり人それぞれ抱えていると思います。

で、まさに大なり小なりであり、ある意味定性的に「これは他者に受け入れ難い」と専門家に判断されたり、定量的に「この診断結果(数値)は閾値を超えています」などとなった時に「異常」の刻印が押される。

そしてこの定性的なり定常的な判断基準は時代とともに常に変化し続けているのではないでしょうか。

また、「正常」の側にいる人間が理解・認知しやすいように、「異常」はどんどん細分化されているようにも思います。

多数者正常の原則

そして、時代とともに変化し続けるこの正常/異常の基準は「多数者正常の原則」が大前提にある。

目が見える人の方が多いから、満足に歩ける人が多いから、今の社会が形成されているわけで、仮に人類の大半が「目が見えない」、「満足に歩けない」社会だったら、社会は全く異なる様相を見せるのかと。

むしろそのような世界ではそもそも「目が見える」という状態を大半の人類は理解できないようなことが暗に想像され、「目が見える」と言っている数少ない人間はそれこそ「狂人」として社会の「外」に追いやられていたかも知れません。

そんなことを考えると、正常/異常という区分は「普遍性」から程遠く、非常に暫定的で、一時凌ぎ的な区分に思えてきます。

勝手に現代哲学に通底する人間中心的な価値観への違和感、もっというと(特に理由もなくマジョリティによって押し付けられた)多数者中心的な価値観への違和感、を勝手に感じ取りました。

芥川龍之介の作品は今月・先月で何冊か読んだのみで、彼が当時なにに悩み、考えていたのかは分かりませんが、この何とも脆弱な「正常/異常」の境界と、あたかも「正常が正で、異常が悪」とでもいうような世間の価値観に苦しんでいたのか、などと思ったりしました。

終わります。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?