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書き上げるために「読まない」こと

大昔、僕がまだ中学生だった頃、美術の授業でやわらかい石を彫った。それが印鑑を作るためだったのか、なんだったのか、もう覚えていないが、彫刻刀でコツコツと削っていった時間は、わりとはっきり記憶に残っている。

あの時、僕が掘ったのは、資料集に載っていた仏像だった。別に大して興味があった訳でもないが、これを彫るのは難しそうだな、と思って挑戦したことを覚えている。手先は器用な方だった。

渡されたのは、四角く、彫刻刀で削れるほど柔らかい石だ。たしか「高麗石(こうらいせき)」といった。

刃の動きによって、この直方体はどんな形に削れていくのだろうか。その先にはどんな姿があるだろうか、と想像しながら、細かく細かく作業したことを覚えている。

彫り始めというのは、まるでCGで言うところの荒いポリゴンのようだ。きっとこの部分が腕になる、この部分が脚になる、と頭の中でなんとなくの完成形を描きながら、大まかなブロックに分けていく作業が延々と続いた。

その石がようやく仏像の姿になったのは、本当に最後の最後だ。細部を整え、曲線をヤスリで磨き上げるまでは、無骨な建築物のようにゴツゴツしていて当然だった。

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たぶん、ライティングというのは、そんな彫刻の作業に似ている。何年も原稿を書き続けて生きてきて、ふとそんなことを思った。

文を書き慣れない人によくある失敗は、きっと“仏像の顔”を彫ろうと熱中してしまうことだ。それが彫り上がってはじめて、腕や脚がどうなっているか考え出してしまう。これでは、出来上がりの頭身も歪になって当然だろう。

原稿も書き始めはCGのポリゴンのように大まかなブロックで良い。導入文でどんなことを言い、中心となる内容はどんな論理展開で進めようか、と全体のバランスを考えながら、少しずつ少しずつ掘り進めていく。きっとこの部分が頭になる、腕になる、脚になるーーと想像しながら。

当然、デジタルツールの使用が当たり前になった今だからこそ、テキストの前後の入れ替えなどは簡単に行えるのが、本当にありがたい。高麗石のように、一度彫り間違えたら終わりなんてことはない分、難易度は低い。

全体の構造が決まったら、ようやく細部を詰めていく。語尾のニュアンスや、リズムにこだわりながら、これで読み手の心は動くだろうか、と考えながら形を作っていく。そして、整った文章というのは、最後の最後にようやく現れる。

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文を書くのは上手いのに、原稿を書くととんでもなく時間がかかるという人がいる。

もしかすると、そんなときには“綺麗に彫ろうとし過ぎている”のかもしれない。新しいパラグラフを書くために、これまで書いた文を何度も何度も読み返して、綺麗につなげようとしているのだ。じっとモニターに反射する自分の顔を見つめて、仏像の顔を綺麗に彫って、次に首と肩を綺麗に彫ろうとしてしまっていないか内省してみて欲しい。

もしそうならば、ライティングの技術に問題があるのではなく、手順に問題がある状態だと言える。

もちろん、彫刻家が「石の中にある作品を取り出す」と表現するが如く、頭の中で文章の構成が固まって、構成を考えずとも自然とスラスラと書けることもあるだろう。しかし、誰もがそのような勘を得られる訳ではないし、もし得られたとしても365日そのパフォーマンスを維持できるとは到底思えない。

要するに、ライティングを日常的に安定してこなすには、まずはざっと全体の構成を整える手順が重要なのだ。これは、きっと多くの人が分かっているに違いない。

しかし、箇条書きのような構成を作ったあとの段階で、自分で書いた文を読み返さず、とにかく全体を書き進めてしまえる人は、さほど多くないかもしれない。

文章を何度も読み返しながら、細部を整えていくのは、最後の後の工程にすれば良い。それまでは、雑でいいので、自分が書いた文を読み返さずに最後まで書き上げてしまおう。

書いた文章を読み直す回数を極力抑えることで、原稿が完成するまでの時間は常識的な長さまで短くなっていく。そして、最後の仕上げを丁寧に行えば、原稿の質が下がることもない。

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