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[無いものの存在]_44:おわり

この連載を書き始めてから、もう4年以上が経とうとしています。
その間に新型コロナウィルスの感染拡大をはじめ、多くの人が経験を共有するような大きな出来事も起こりました。それらは画面越しの遠い現実ではなく、一人一人の生活に影響を与えたものも多かったのではないでしょうか。この4年という歳月で僕は右足を切断し、義足で歩くようになり、そんな変化を当たり前と感じるようになっていったのでした。
変化のきっかけは2019年9月14日。
夜道で段差につまづいたことがきっかけとなり、自然な成り行きで、しかし突然と切断という選択に至るのでした。「つまづきの石」なんて言い方がありますが、本人の意表をついて不意に訪れたその段差は、まるで突然コンコンと僕の身体をノックし、心も頭も一緒に別のどこかへ連れていこうとするような思わぬ来訪者でした。ついドアを開けてみると、そこには右足の切断という次のステージが続いています。切断に対して喪失の悲しみよりも変化への期待が溢れていましたが、右足への労いも忘れずに最後の数カ月を過ごし、いよいよ11月28日に右足を切断したのでした。
この『無いものの存在』を書き出したのは、幻肢痛という強烈な体験に興奮冷めやらぬ12月3日のことです。術後、麻酔で朦朧とする中にありありと感じた右足の存在感。燃えるように熱く、血がたぎる感覚に手術の失敗も頭を過りながら目を向けた下半身に右足はありませんでした。自分の身体に起こった強烈な矛盾を感じた瞬間、ほんとうに新しい世界を知ってしまったような気にさえなったのです。
幻肢痛と呼ばれるこうした症状を体験できることを密かに楽しみにしていた僕は、これは治療対象ではなく、自分自身を更新するための最新技術だと考え、幻肢痛とアートへの眼差しを重ねていくその軌跡を記録したのがこの『無いものの存在』でした。

幻肢も成長する
切断と共に産声を上げた幻肢は、元々付いていた右足の遺伝子や魂を受け継いでいるのか、失った体のなごりとして存在感を放ち続けていました。術後間もないころははっきりとした足の輪郭を伴うことが多かった幻肢痛も、義足で生活する時間が増える中で徐々に穏やかになっていくのでした。今でも車の運転中なんかはぼやっとした幻肢の感覚がよく現れますし、天候によってはズキンッと突発的な幻肢痛を感じることも稀にあります。幻肢の輪郭は徐々に短くなって幻肢痛も無くなると言われるように、僕の幻肢も輪郭の鮮明さを無くなっていき、当初感じていたよりも短くなっていったように思います。それでも右足に血が通うような感覚が完全に無くなったわけではありません。それはまるでやんちゃだった子猫が大人になるにつれおとなしくなるように、幻肢も成長しているのかもしれません。もちろん医学的に見れば痛みが減るのでそれは治癒なのかもしれないし、症状の変化と呼ばれるものかもしれない。でも、ここは愛着も込めて成長と言ってみます。おじいちゃんに寄り添って昼寝をする老猫のように、ちょっと隔たりつつもくっついている、そうやってお互い年を取る気がするからです。

義足の固有性
義足はと言えば、完成までは時間が掛かったものの本義足も出来上がり、すっかり生活にも順応しています。担当の義肢装具士とも自分に合うパーツを吟味することができたことと、オリジナルのソケット制作を通じて身体に馴染むものに仕上がったのだと思います。
義足を履かない日はないのですが、毎日出かけることも多い生活なので、たまに休肝日みたいに家でなるべく義足を付けないで過ごす日を設けたりしています。特に夏場などは断端が蒸れたり、パンツとの摩擦で股が擦れてしまうこともあるので、スキンケアのつもりで断端を休めるのです。そうやって目的や状況に合わせながら、毎日履かなくちゃいけないといった義務感もなく、良い関係が結べています。
今では「青木さんらしい歩き方」という基準も出来上がってきました。これは本義足制作中、二重式ソケットにしたことで生じていた僅かな操作性の変化をパーツの角度などで調整している時に義肢装具士に言われた一言です。「うまく歩けている」と言われるよりも、自分らしいという言い回しが心地よかったのを覚えています。
ほとんどの義足は限られたパーツの組み合わせによって作られます。しかも自分の使い勝手や希望だけでなく、補装具費の判定を受ける過程では使用するパーツの性能や金額、当事者の障害の程度などによって選択は限られてくるので、パーツの組み合わせは決して多くはないでしょう。そのような中でも、当事者の体格や使い方によって細かなセッティングの差が生まれ、「その人らしい歩き方」が出来上がっていくのです。だから例え既製品であっても、義足が身体に馴染んで生活に順応すればするほど、そのような固有性を実感します。

『無いものの存在』の出口に向かって
今改めてこれまでの文章を読み返すと、考えていることはあっちへ引っ張られては、こっちへ戻り、雑多な思考がふらふらとし続けていたなと思います。必死に答えになりそうな出口を見つけようとしていたのかもしれないし、考えがどこかに留まることを避けていたのかもしれません。
幻肢痛をきっかけにしたこの連載は、そうやっていくつかの言い回しや異なる事象からのアプローチはあったものの、その根幹にあったのは「障害と呼ばれる体験に多層的な解釈を与え、それを共有することで自分の想像を超えていく手がかりを見つける」ということだったように思います。そして「多層的な解釈」と「想像を超えていく手がかり」の補助線を引いてくれたものが、僕がこれまでに出会い、関わってきたアートの存在でした。
そしてその補助線はもはや不要になりつつあり、幻肢や義足の順応と同じように生活の中に融解している今、『無いものの存在』にもひとつの出口を与えようと思い、この記事を連載のまとめとします。

障害を他者と共有する
4年間で43本の記事を書いてきたのですが、それらは主に切断期、リハビ期、義足づくりの3つ段階と、アートとの関わりやその他の随想的な章に分けられます。改めて読み返してみると、それぞれの過程で記録された言葉には一貫する問いや戸惑いが見られることも多く、記事となった時系列はバラバラでも呼応し合うものもありました。

はじまりは、幻肢を生んだ右足切断という出来事と、僕が携わるアートに対する考えに何か繋がりを感じたからでした。

プロジェクトによって異なるものの、そこでの僕の振る舞いを要約すると、一人で決定せず、管理し過ぎず、フラジャイルな選択をどのように泳がしておけるかの模索です。そういうコンセプチュアルな部分と、会議や会計、書類作成などプラクティカルな部分は、心と身体のように連動していると思うのです。
(中略)
右足切断という事実と芸術と向き合う振る舞い。
幻肢痛を感じた途端にそんな両者が繋がるのではないかと閃いてしまい、アーティストの友人達にメッセージを書きなぐっていたところ、山内祥太くんから「エッセイ書いた
らどうですか?」と提案され、公開noteの作成を決心しました。

(01:右足を切断しました)

幻肢痛をきっかけにどうして身体的な変化と芸術との向き合う振る舞いが繋がったのか、当時は本当に直感でしかありませんでした。切断された右足の存在を感じるという圧倒的な矛盾を体験することと、芸術や文化に触れて自分の想像を超える存在に出会うような感覚が互いの琴線に触れたのだと思います。
そして、そうした共鳴を強く生んだ理由は、これまでは誰かと共有することができなかった身体の状況も関わっていました。

かばっていた右足は言い換えると「隠されていた右足」だったということだ。(中略)
隠されていた右足の存在は、他者と共有しやすいものになり、僕一人で抱える精神的な負担が大きく減ったのだ。(中略)
つまり幻肢は確かに(見え)無い足なのだが、僕にとっては「無い」という存在をみんなで共有することができるとても便利な概念なのだ。

(09:切断は欠損ではなかった)

これまで自身の障害を他者に共有することは積極的には行なっていなかったけれど、幻肢痛という経験を機に、この体験やそこから始まる思考実験については表現することができるようになったのでした。僕の障害を右足切断の時点から考えるならば、喪失からの回復の物語として収まりは良いかもしれません。しかし、これは12歳の骨肉腫から始まっていた右足の変化の中のひとつの通過点なのです。僕の中では「隠されていた右足」が切断されてから自他共に言及できる対象となったことは、正直に言えば故人の悪口を言うような後ろめたさみたいなものもあります。
だから『無いものの存在』の中にはそのような戸惑いが数多く語られることになったのかもしれません。それでも、そのような戸惑いに身体ごと浸っていられる経験が苦しいことではありませんでした。アートを「あらゆる矛盾の中でも切実に思考することを可能にするひとつの方法」と考えていることを補足したうえで、両者を次のように結びつけています。

ただただ見えない右足を感じ続けるという「不確かさ」の中を漂う感覚が妙に心地よかった。(中略)言い換えるとアートには「不確かさ」を引き受ける技術がある気がしている。幻肢痛がそんな状況に限りなく近かった。

(07:幻肢という「不確かさ」)

幻肢痛を感じた時、この経験は誰かと共有できると思ったことが自分にとっては重要でした。自分の身体の変化を言語化することが自分のケアにもなっていたので、一人で抱え込まずに伝えることの可能性に気が付いたのでした。
ちょうど30歳で仕事も楽しくなってきた一方で、アート業界のようなシステムの中で、“若手”の“男性”“キュレーター/ディレクター”という構造に組み込まれる自分が、いつか弱音を吐けなくなるのではないかというプレッシャーや、権力構造の中で自分が潰されたり、反対に僕が小さな声を押しつぶしてしまうのではないかという不安への抵抗となり得る技術が、右足切断を巡る出来事から学べる気がしました。
人が安心して表現したり、表現に心を動かすことができる場はどのようにつくれるのか。そんなキュレーションの技術と重なったのです。

身体の変化から複雑化する思考
自分の経験を言語化したり、弱さを公開していくという視点は、記事でも書いたように「べてるの家」の「当事者研究」にも影響を受けていました。自分自身を探求したり共有するこのような姿勢は『無いものの存在』全体に通底するものと言えるかもしれません。
特にリハビリを通じて義足を作っていく過程では、新しい身体の使い方を体得することにも繋がっていたようにも思います。

その身体は僕にとっては切断前の足とも違う、根本的に新しい移動手段である。

(12:義足は乗り物)

ベテランPTさん、同世代の義肢装具士さん、みんなで僕の足をどうするか、色んな戦略を立てていく。 F1っぽい。 どんな義足でもドライバーは僕以外代わりはいないので、ドライビングのテクニックは高めておかないといけないし、どうしたらもっと歩きやすくなるか、周囲の客観的なアドバイスに応答できる自己分析が要求される。

(14:義足が知りたい)

幻肢痛を初めて感じた時のように、義足で歩くことがとにかく楽しかったのです。また元々チームスポーツが好きだったので、義肢装具士や理学療法士と一緒に義足づくりやリハビリを行なうという協働作業も刺激的でした。
しかし、リハビリを続ける中で、義足の機能的な限界も分ったり、健常者というものを水準とする工程に違和感も感じるようになります。それよりも僕自身にとって義足とはどういう存在なのかを考えるようになりました。

僕は健常者の右足を目指してリハビリしているのではない。極端な言い方をすれば、リハビリなんて僕と義足と幻肢と対話を始める儀式みたいなものだ。

(27:義足の相棒感)

こうしてリハビリというフィジカルな体験も強まるなかで、それまで幻肢という不確かな存在を通じて考えてきた思考も複雑に変化することになります。

「無いもの」 という不可視性は、客観的な事物(つまり義足)との関係を通じて体と思考に可塑性を生じさせる。行動が思考へと影響し、その逆もまた然り、であるならば切断を通じた一連の変化にフィジカルな側面とコンセプチュアルな側面の連動を見出してきた「無いものの存在」は、ここに来て「心身の可塑性」という視点から再出発点できるかもしれない。

(23:仮義足の完成と幻肢の常態化)

募る戸惑い
このような義足との向き合い方も功を奏したのか、幸いにもリハビリは順調に進んでいたのですが、ただひたすらに自分らしい義足の習得を目指すなかでまた別の戸惑いも現れます。

ここのリハビリに集まる人はそれぞれ色んな理由がある。どんな理由かはわからないけど、とりあえず足が無くて義足の練習をしているということは辛うじての共通体験に見えて、その体験ですら個々に違いがあって一元化することは難しい。

(13:右足を環境に同期させる)

人によって義足になった状況も、リハビリの過程も、目標設定も、出会う医者やPTや義肢装具士も異なる。そんな中で、ただひたすら義足が乗りこなせても、あくまで個別的な結果であり、ある意味マイノリティの中のマイノリティという気にもなる。それと、PTさんが「今の義足は使う人によってレ ベルに差が出てしまう。本当は誰もが一定のレベルで歩けるようになれたらいいのに」と話していたことも印象的だった。僕の言葉が誰かを置き去りにしていないだろうか。

(21:幻肢はわからないからいい)

アートでは、個の表現を突き詰めた先に、それが多くの人の共感や関心を呼んだり、社会への批評性を宿すことがあります。個が公に至るそのダイナミズムが表現の面白さでもあると思うのですが、それは表現することの覚悟も問われることです。
僕は右足切断、幻肢痛、義足といった個別の体験を言葉によって表現してきましたが、それはほとんど全て「障害」「病状」「リハビリ」という、物語化されやすい当事者の語りとして需要されていったのでした。当時約20本の記事も書いてきたなかで、言語化することにも慣れてきたり、それを面白がってくれる人達がいたことは新しい発見も多く、とても嬉しかったのです。でも、そうやって個が自立する反面、まるで競争社会のように誰かを置き去りにしているのではないかという気持ちもあったのです。

個と孤
遡るとそのような不安は12歳で障害者手帳を取得した頃からありました。特に繊細な思春期のなかで、「障害者」として自認することは、ひとつのアイデンティティを確立させる以上に自分を型にはめ、自分の障害に対する理解を盾に他者や社会を遠ざける番犬になってしまうようにさえ思ったのです。そのことは『無いものの存在』でも触れられています。

同時にフラジャイルであるという当事者性は特に理論の上では強者に成り得てしまうことを強く懸念した。「障害者」というタグが社会の中で当事者自身に対して働く暴力性、つまり「障害者」と「健常者」が区別されることで、「障害者」である自分自身が「障害者」という限定されたカテゴリーの中で自分自身を理解しなくてはいけないという不毛な圧力を感じさえした。「自分のことは自分が一 番知らないといけない」というプレッシャーは、一歩間違えると「リアルなのは自分だけ」という理論となり他者を排除しかねない。

(17:存在の背景)

それでも最初のころは幻肢痛という不確かな事象をそのまま共有できるのではないかと期待したのです。僕が分かっていることでもなければ、専門家がいるわけではない。だから僕が言葉にする「わからなさ」も、そのまま受け止め合うことができるのではないかと思っていたのです。実際には、出来ないことが出来るようになっていくリハビリの過程で、そのような個としての自立が孤立へと繋がる感覚を強めるのでした。

「出来なさ」に目を向けた理由は2つある。まずは、幻肢痛、義足のリハビリの経験を次のアクションへ繋げようと積極的になっていく中で、新しいことを見つけないといけないというプレッシャーが高まっていたことが要因のひとつである。初めての経験は楽しい。これまでに無い動きを獲得するのは文字通り“新しい体”を手に入れた気分だ。しかし、それは「障害」を孤立化させるのではないかという不安も隣り合わせだった。僕が約20年間、ある基準からカテゴライズされていた「障害者」という中で、「出来ること」の可能性を追い求めて幻肢や義足を自分の中で再構築していく作業はマイノリティの中のマイノリティ化を進めている。こうして個/孤の特性としての「障害」は、いつしか自分の中でも思考を深める「タネ」から、障害をアイデンティファイする「ネタ」化してしまうのではないかとい葛藤があった。これは今でも自分の中ですっきりした回答は出ていない。

(25:戦略的なあいまいさ)

この葛藤はこの記事を書いている今も多かれ少なかれ感じています。
ただし以前よりも少し覚悟ができた気もするのです。それはつまり、1本の記事や少ない言葉で伝える切れる事でも無ければ、考えることを辞めてよいことではないので、これは僕自身が一生考え、戸惑い、その葛藤を表現し続けなくてはいけないと思ったのです。

自分にとっても未知で不定形だった体験が、パッケージング化されて、輪郭を定めていく感覚も増していった。(中略)
幻肢痛というとてつもなく主観的な体験が突出していった時に、自分しか勝てないゲームを作っているような気分に陥ってきていた。そのゲームの価値が自分の手の中にしかなかったらどうしようと思って不安になった。だから、その経験を話したり言葉にするのが少し嫌になってしまっていた。

(39:わからないことをわからないまま)

このように連載のなかでも言語化するのが嫌になった時期もありました。しばらく書くことが出来なかったのですが、書けないことも書くという方法に身を振ったのです。
今もそのような態度は大事だなと思います。わからないことを無理に咀嚼するのではなく、わからないときはわからないと言えば良いし、とにかく表現することを諦めないやり方があると思うのです。
それと、4年という歳月をかけたのは、義足の完成が遅れたり、書けなくなったりと僕自身の都合もありますが、実は消費されていくことへの抵抗もあったのです。もっと完結に連載を書き進めていけば、もっと違った解釈と出会えたかもしれないのですが、誰かが闘病と呼んだ僕の経験は、僕にとってはただの日常なのです。だから、忘れ去られるくらいの時間がかかったほうが、『無いものの存在』が熟成していく気がしました。そしてその時間の中で、前述の表現への覚悟を育んできたのです。

ドーナツの穴がただの名も無い空白ではなく、「ドーナツの穴」として存在してしまうように、「無いもの」の存在について考えることで、その“不確実さ”は一見すると“確実”な何かになりすましていく。自分の手元にある時には不定形なのに差し出そうとすると、急に相手に合わせて輪郭を帯びてしまい、強く、硬い何かに転じてしまう。

(40:それはそれ、これはこれ。)

戸惑いは常に隣り合わせにありますが、それは否定することではなく、断定を避け続けるための勝手口として必要不可欠なものなのです。

ひとつではない価値
こうして不確かなことに戸惑い続ける作法は僕にとってますます重要なものになっていくのですが、果たしてこれは一体何のために必要なことなのでしょうか。僕が一人でそれを大事にしているならそれで良いだろと言ってしまいたい気もしますが、こうして言葉にして表現している以上、誰かが受け取り、反応も返ってきます。
また少しアートの話を挟んでみます。アートでは常に新しい表現が求められるので、アーティスト達は過去の作品を学び、それらの表現を超えていくような技術や背景を自分の作品に込めていきます。だから誰かの作品を真似したり、他の表現方法やエンターテインメントとして代替されてしまう物ではなく、その他の方法では表現することができない作品としての固有性や必然性がアートとしての自律性を高めていくと言えます。
アートの面白さに、個の表現を突き詰めた先に公に至るようなダイナミズムがあると言いましたが、誰もが絵を描いたり、洋服を選んだり、料理をするようなあらゆる表現がアートという土俵に乗るわけではありません。例えばアートの専門的な教育を受けていない人の作品を指すアウトサイダーアートへの私自身の懸念にも繋がります。
医療・福祉とアートを横断する活動をする方々へのインタビュー調査をしていた時のことです。ある障害者施設の方が、アウトサイダーアートという視点と福祉が目指すものは乖離しているのではないかということを口にされました。障害や特性は本当に人それぞれです。ひとつの施設の中にも多様な人達がいます。福祉とはそのような多様性を認め合えるような場であるはずです。そのような世界に対して、アートのような個の表出を面白がるなかりでなく、表現に優越が付くようなシステムが果たして本当に寄り添うことができるのか、その方の疑問は様々な特性を持った人達の表現の可能性を感じるからこそ、それがアートという制度に回収されていくことへの戸惑いでもあったと思います。
アートを業界やシステムとして形作っているのは、アートに関わる人達です。しかし、世界には無数の表現があり、多様な創造力があると僕も痛感します。表現を突き詰めるアートへの敬意もあるし、そうした作品に救われてきたので僕もアートの必要性は十分わかっているつもりです。しかし、あらゆる表現や創造力がアートの土俵に乗る必要はないと思うのです。
それは、僕自身が幻肢痛や義足に関する経験を表現してくるなかで、これがどのような価値のなかで需要されるかということに悩んできたためです。

人の体に対して「親指はもっとこういう方がいいんじゃない?」と言う人はなかなかいないだろう。しかし、他人の体に向かって「もっとこうしたほうがいい」が言えるのが義足だ。 代わりの利かないことによる唯一性によって大切にされるのが生身の体なのだとしたら、まさに“代わりが利いてしまう”義足は、自分だけのものではなくなっていく。ここに義足を作ったり使ったりすることの面白さがある。

(37:義足の価値はどこにあるのか?)

アーティストが作った作品に限らず、表現というものは人と人の間に置かれるものではないでしょうか。人と人が直接話し合ったり、交流することが難しい場合でも、表現を通じることで、その表現を一緒に眺める当事者になることができるので、個人と個人、個人と社会を繋ぐ媒介になるものです。
そういった意味ではチームで作り上げる義足もまた、僕と社会を繋ぐ媒介になっていくのでした。では、その義足は僕自身の補助具でしかないのでしょうか?

義足の価値はどこにあるのか。それはやはりあくまでユーザーにとっての価値だろう。しかし、義足はユーザーが全て作れるわけではない。だからユーザーだけじゃなくて技術者や制度を総動員して制作する。そして個々のユーザーの評価がこれから義足になる人の価値観を作っていくんじゃないだろうか。そこには小さな物語から紡げる大きな物語があるのかもしれない。だから僕は最大限に義足を楽しんでみたいと思うのだった。

(37:義足の価値はどこにあるのか?)

『無いものの存在』のなかでも何度か触れたこともありますが、アートという歴史や制度など主語が大きくなる語りに対して、アートに救われてきた自分自身の体験の間に感じてしまっていた溝に、どのように橋を渡せばよいかということはキュレーターとして考え続けていました。幻肢痛や義足を通じて考えていく表現や価値というものも、そんなアートと自分に重なる部分があったのです。
しかし、義足づくりやリハビリのような個別性の高い事柄(ここでは障害と言い換えても良いかもしれません)を経験するなかで、その人にとっての固有の価値観が社会を変えていくきっかけになるのではないかと考えたのです。つまり、幻肢痛との向き合い方やリハビリが突出した個の経験として表現されても、突き詰められた個はやはりどこかの誰かに繋がっていく未来があるかもしれない。僕の小さな経験や僕しか履くことが出来ないこの義足も、社会の中にわずかな可能性を可視化し、記録しておく意義があるのではないかと腹を括ったのです。
実は当事者研究のような視点から得るものも多かった反面、障害者というカテゴライズに悩むことや、孤立していく不安は、当事者という線引きがあったからではないかと思うことがありました。誰しもそれぞれの固有性があり、自分自身の当事者なわけです。だから当事者としての表現というものを突き詰め合うことは、多様性を認め合うだけの世界なら良いかもしれませんが、アートという土俵が時として残酷なように、この社会の中で無用な優越が生じてしまうのではないかと不安を感じることがありました。それはアウトサイダーアートを巡るもやもやと重なっていたからです。だから自分の発言がそんな競争に拍車をかけることになるのではないかと怖かったのです。
そんな戸惑いを抱えていることを隠して表現することもできたかもしれませんが、もう手遅れというか、それも全てこうして吐露することが、やはり未来を変えるかもしれないと思うのでした。

不確かさを社会化する
全てを吐露していくような態度は、真摯に取り組まないとただの傍若無人になってしまうかもしれないので、慎重さが求められます。でも、切断前に右足を隠すことになったり、アートの権力構造の中で自分自身が疲弊し改善すべき構造を再生産してしまうよりも、無いものの存在に耳を傾けることで弱さを公開し、自らをフラジャイルな状態に導いていくようにになりました。

切断後、ベットの上で感じ始めた幻肢痛は夜も寝れないくらい痛かった。でも幻肢自身や僕の体はそれを「治してほしい」とは訴えていないように感じた。むしろその存在を肯定して欲しいような気さえした。死んだことに気がつかない幽霊みたいな描写があるけど、それに近いような、幻肢自身の戸惑いも感じたので、無かったことにするよりも、その声に耳を傾けようとした。痛みを無くすことは医者や何かを「納得」させるかもしれないけど、幻肢はそんな納得よりもただ存在を肯定することを求めていたのかもしれない。
だから「無いものの存在」の延長にある布づくりにおいても、何かを決定的に解決して「納得」する のではなく、その逡巡全てを吐露していけることが、一番しっくりきたのだ。

(39:わからないことをわからないまま)

幻肢痛の痛みを管理し、順調な回復をカルテに記入したいのは医師や看護師だったはずです。痛みが1だろうが10だろうが、患者が痛いことに苦しむなら数字は関係ないし、僕のように痛みと捉えていないのなら一方通行なコミュニケーションとなってしまうのではないでしょうか。
これは当事者と支援者の間に起こりがちなジレンマかもしれません。痛みを取り除いてあげたいという医師の思いもわかるけれど、幻肢痛に対して治療以外の選択肢が無い状況は僕としては苦しい。互いの理屈があって、それぞれの価値観がある状態です。そうやって互いの最善がぶつかり合う時、往々にしてどちらか一方の主張が採用されるものです。
しかし、それが人と人の間に置かれる表現を媒介にすることができたらどうでしょうか。僕が幻肢痛を「無いものの存在」と呼んで未知で不定形なものを表現として差し出してしまえば、切断当初に幻肢を数十メートル伸ばしたりできないかと妄想していたように、僕自身の変容する身体感覚を周囲へ伝播させることに繋がるのかもしれません。
障害と呼ばれているものは表現を通して人と人(当事者と支援者)、そして社会の媒介となり、みんなの中にもある「不確かさ」に目を開かせるものなんじゃないでしょうか。「わからない」と困ることもたくさんあります。でもわからなくて困るのは、当事者とは限りません。だから少し立ち止まって考えてみてもらえば、痛みが10だと困ってしまうのは当事者である僕ではなく、「わかる」ことで埋め尽くされる世界に安心しようとしている人達のはずです。

自分への影響(欠陥ですら)を身の回りの状況に浸透させていく感覚が身体の拡張なのかもしれない。

(35:幻肢性と飛躍)

一緒にいると思わず笑顔になってしまうような人がいるように、僕の幻肢は僕自身を解きほぐし、周囲との関係性も変容させていく。障害と呼ばれる事象には、当事者も支援者もごちゃまぜにしていき、互いの間や当事者と社会の間に置かれる表現になるような効果があるのかもしれません。

無いものの存在
そうした効果について、昔から予感めいたことを感じていました。

骨肉腫、父親の脳腫瘍から考えたのは、人間の体が変わることで影響を受ける思考についてと、身体や思考の変容は当事者を通じて社会化されること(つまり障害者と呼ばれることや個の変容が病院や福祉という制度の中に生きること)だった。それはアートについての考えに影響し、反対にアートの歴史や実践が僕の思考を通じて体に変化を与え続けてきた。

(25:戦略的なあいまいさ)

身体と思考の変化の媒介が個を突き詰める手がかりとなった表現としての幻肢や義足なのです。これまで机上の空論でしかなかった予感が、右足の切断によって具体的な経験となったのでした。

僕自身が今自分の体とやりとりしている「治療」とも名付けがたい行為は、アートの創造性を社会化する実践でもあるのだ。それは極めて個別的な実践だとしても、この創造力は自分をケアする切実な技術なのである。

(28:ゲンシとアートを行き交う技術)

そして「無いものの存在」というひとつの実践の軌跡は、僕が自分自身をケアするために希求して発揮された、治療ともアートとも名付けられない切実な創造力のひとつでした。
しかし、それはこの軌跡の中の問いに対するひとつの回答を意味しません。あらゆる断定を避けるため、そこに生まれる複数の応答の間を漂うこと。自らの内にある不確かさを回答可能な問いにせずに不確かなままにすること。あれでもあるけどこれでもある、これでもないしあれでもない。あらゆる矛盾の中で切実に思考を続けるために、不確かさが反響するその余白に張りつめているものが無いものの存在だったのでしょう。

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