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[無いものの存在]_21:幻肢はわからないからいい

前回のnoteからしばらく間が空いてしまった。
色々書きたいことはあるのだが、年度末に立て込んだ仕事や新型コロナウィルスで中止や延期になる仕事の対応で慌ただしく、落ち着いて言葉にする余裕がなかった。

今は束の間のひと段落で、後は年度末の報告関係の作業が残っている。外出自粛要請から在宅ワークとなる仕事相手も多く、先方の都合に合わせてこちらも外出が減ってきた。そして先日は久しぶりに終日自宅で過ごしているたのだが、ふとカレンダーを振り返ってみると自宅で終日を過ごしたのはひと月以上前に胃腸炎で倒れた時以来だった。

これはつまりほぼ毎日義足を履き続けていたということだ。
そうすると何が起こるかというと、断端がますます細くなるのである。
しかも3月には展覧会が1本あったのだが、その展示の設営でそれなりの重労働もしている。(バスケットゴールやサッカーゴールを運んだ)
思い返せば2月には福島県大玉村に行ったり、多摩ニュータウンをひたすら歩いたり、京都に出張したりもした。リハビリ施設退所後、かなりの稼働率だったと思う。
ここまで動けば義足でどこまでできるのか、具体的なイメージが広がっていくと同時に、まだまだ未知の領域があることを感じる。

実は3月下旬に仮義足のソケットが完成したのだが、術後よりだいぶ細くなった時点で測定したにも関わらず、約3週間でさらに細くなっていてすぐに断端袋が必要となっていた。術後から比べれば明らかに引き締まったことが分かる。
肉体の変化は見えないものにも影響を与えている。

例えばこの期間、幻肢も義足に同期することに随分慣れてきた。
義足を外している時は以前ほどはっきりとしたイメージはなく、ぼんやりと断端の先に感覚が浮遊しているのだが、義足を履くと幻肢のイメージがはっきりとして、まるで足があるかのような感覚になる。
それは義足の角度によって同期具合が変化するのだが、直立したり直角に曲がっていたりするとぴったりと同期しやすい。

接触と記憶
先日、仕事でとある記事を執筆した。広州出身のダンサーのアーガオさんが、北海道の浦河べてるの家への滞在をへて実施したワークショップを紹介する記事である。(詳細はこちら「よりよく生きるための選択ー孤立から救済する技術」)、そこでは「接触」と「記憶」をキーワードにワークショップを読み解き、少しばかり自身の幻肢にまつわる経験も交えたのだった。
そこで考えていたのは、身を以て経験した出来事は、その人の体や心に確かな記憶を刻みつけているということだ。例えその肉体が変化し物理的な増減が生じたとしても、自分が把握していたイメージとしての身体やその物理空間から生じていた思考は、経験の残滓として脳に居座っている。まるでゴミ箱に移しただけでは消し切れないデータみたいに。
幻肢を感じ出して4ヶ月。術後すぐに「治療の対象にするのは惜しい」と思っていた勘が当たったというか、経験の残滓をもう一度「ゲンシ」という足でも義足でもない感覚に振り戻せているのは、体にも思考にも良い影響があったと思う。

義足は足にあらず
体が受けた良い影響とは、何より義足を乗りこなせたことだろう。
幻肢によって体の使い方の可能性が示されたおかげで、義足=足/リハビリ=健常者のように歩くこと、というレールから外れられたのだ。だから義足を新しい乗り物のように考えることができた。
「健常者のように歩くこと」という模倣を目標に設定してしまっては、それ以内のパフォーマンスしかできない気がした。本当は「歩く」先にあるのは、「あっちに行きたい」「そこにあるものを取りたい」とかである。「歩く」はあくまで手段でしかないなら、よりアクティブな到達点を設定したいと思った。それが、新しい乗り物としての義足のイメージを形作らせたのだ。
ただし、こういうことを活字にするのは後ろめたい気持ちもある。
人によって義足になった状況も、リハビリの過程も、目標設定も、出会う医者やPTや義肢装具士も異なる。そんな中で、ただひたすら義足が乗りこなせても、あくまで個別的な結果であり、ある意味マイノリティの中のマイノリティという気にもなる。それと、PTさんが「今の義足は使う人によってレベルに差が出てしまう。本当は誰もが一定のレベルで歩けるようになれたらいいのに」と話していたことも印象的だった。僕の言葉が誰かを置き去りにしていないだろうか。
そのPTさんは、初めてその施設を訪れて入所か通院かを相談していた時にまだ片足の僕に向かって、「青木くん、自分はすぐ歩けると思ってるでしょ?」(はい)「だよね?たぶんすぐ歩けそうな感じするから、10日でもいいから入所しな」と言った人だった。
一体何が“すぐに歩けそうな雰囲気”を伝えたのだろうか。

きっとそれは、どんな数値にも現れるものではないし、手術を終えた日から出来上がったものでもない。その因子は長い時間をかけて準備されているはずだ。毎日痛みのレベルを聞いてきた看護師や医者は知らない、30年間かけて蓄積してきた経験がつくってきたものだと思っている。そこにはアートの存在があったと信じている。

ニアリーイコールな身体
自宅で過ごす間に久しぶりに仕事ではない理由で、ふらっと本棚から本を取り出してパラパラと文字を追っていた。
手にしたのは『中井久夫コレクション 「伝える」ことと「伝わる」こと』。
目を留めたのは「解体か分裂かー「精神=身体と”バベルの塔”」という課題に答えて」の中で線を引いた次の言葉だった。

精神が一般に解体か分裂かの危機にさらされた時に、比較的ましなほうを選ぶために分裂の方向をとる、という精神の戦略がありはしないか、と思っている。

最後の「、と思っている」っていう言い回しと、一呼吸置くリズム感が読み返しても気持ちいい…というのは余談だが、この文に目を留めて、幻肢は自分にとって“比較的ましなほう”だったんじゃないかと気が付いた。
足を切る準備ができていたとはいえ、四肢が無くなるってことは、ポジティブにしろネガティヴにしろ身体にとっては忙しい事態である。幻肢を出現させるのは、その忙しい移行期間を取り繕う存在なのだろう。
そして僕はその取り繕うだけだった存在を、「お、お前面白いじゃないか、もう少し仲良くしよう」と取っ捕まえてしまった。つまり、右足を自分ニアリーイコールな身体として分裂して付き合う術を選んでしまった。これは、精神的にか、肉体的にか、何かしらの生存戦略だったのではないか。

わからなさと付き合うこと
そして、この中井久夫さんの文章は次のように締めくくられる。

この一例は私にバベルの塔の故事を思い出させる。神は「解体」を狙ったらしいのだが、人間のことばは解体に至らず「分裂」して多くの言語になった。人格の「分裂」は必ずしも健康な現象ではないが、緊急避難的な意味がある。社会における「分裂」も、また、その意味合いはないだろうか。たとえば、全体主義国家はうまく分裂できず、一挙に解体しやすいのではあるまいか(その後もその例は少なくない)。

今、新型コロナウィルスの影響で他者との接触は憚られている。前述の記事では接触とその状況を対比させたが、寄稿から日々状況は変化(それも悪い方に)している。
今の社会には緊急避難する分裂という選択肢はあるのだろうか。社会も人も解体してしまわないか心配になる。
右足の切断、という社会からしたら些細で個別的な経験かもしれないが、この状況を救ってくれたのは文化や芸術に触れてきた蓄積があるからだと信じている。それは、緊急避難する道を開く技術でもある。それはつまりは、わからない存在に対しての対処の方法でもある。この世界にはどうも自分にはわからない存在がいるらしい。その驚きや感動や不安を、真正面から受け止めるのは、心も体も保たない。中井久夫さんもこの文の冒頭は、「精神といい、身体といっても、いずれもきわめて保守的なものである」と書き出している。保守的な精神や身体のクッションになる存在のひとつがアートではないだろうか。僕はアートは一義的な解釈を拒み、あらゆる矛盾の中でも切実に思考することを可能にするひとつの方法だ、と思っている。

幻肢への興味は、そんなアートと似たところがあるかもしれない。
見えない、触れない、でも足がある、なんてどんなに言葉で尽くしてもわからないだろう。それでもその存在について考え、語り、活用することは、わからなさに身を置き続ける作業でもある。そしてアートはそうしたわからなさと向き合い続け、技術を磨いてきた歴史がある。アートはそんな状況で使うことができる技術でもあるはずだ。
今の世界の状況も、わからないことがたくさんある。身体的な接触が憚られる世界で、どうやって他者を思いやることができるか、最近はそのことばかり考えている。
見えない幻肢や想像を超える他者、そういうわからないことを通じて、柔軟に自己を更新しなくては、人も社会もたやすく解体してしまうのではないだろうか。

そんなことを考えながら、4月2日に誕生日を迎え、年齢もひとつ更新された。

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