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[無いものの存在]_35:幻肢性と飛躍

梅雨入りしたのかと思えばすっかり夏みたいな日もある最近。
徐々に断端の汗の量も増えてきたのを見ると、断端また痩せちゃって本義足のソケットにフィットしなくなるんじゃないか・・・なんてことも頭を過ぎる。今頃はもう本義足を着けて歩き回ってると思ったけど、陸上用の義足の試着、本義足の制作などなど、コロナの影響もあって遅れてしまったことが多い一年だった。とはいえどれも焦ることではないのでのんびり進めている。
「幻肢痛は10年近く経ってもするよ」と僕よりも先に切断した友人が言っていた通り、頻度や感覚は違うけれどまだまだ幻肢は自分の存在を主張しているから面白い。

最近考えていることがある。それは「幻肢性」について。
幻肢痛、幻肢がどんなものかは医学的に調べたりされていることだろう。でも「無いものの存在」として綴っていることは、決して幻肢の原因を見つけることでもなければ、治療法の開発ではない。ここで書いたこと、まだ書いていないこと、頭にも浮かんでいないことの多くは、実は幻肢痛それ自体から「幻肢性」のようなところに向かっているもののような気がしたのだ。それが「無いものの存在」という言葉を導いてくれたのかもしれない。つまり「幻肢」が何かわからないけど、それを通して得られる効果を「幻肢性」のある状況として考えてみている。

そんなことを考えていたら、大学の卒業論文を書いている時に担当教授から「青木くんの論文には独特の飛躍がある」と言われたことを思い出していた。
論じていることが僕の頭の中では繋がっているのだけど、論文の中でAからBへ話を展開させる時にその間が抜けているのだそうだ。これはどういうことかと聞かれて口で説明はできるのだけど、文章で冷静にそれを伝えるのがどうも不得意だったらしい。
何かの企画を考えたりする時に、僕の頭の中は板野サーカス状態(マクロスの戦闘シーンの描写のような)になる。様々な記憶や関心、アイディアが頭の中をビュンビュン飛び回っている中をすり抜けていくような感覚があって、何かが繋がる瞬間にパッとアイディアを掴んでいく。一見すると無関係に見える事象も、そこにたどり着く導線には何らかの因果関係があるので、自分の中ではその接続に必然性を感じている。それをアウトプットする時は人に伝わるように、その飛躍が思い込みじゃないかとか、その間を伝えられる言葉を見つけるようにしたりしていたのだ。

同じく幻肢痛には圧倒的な飛躍がある。
体は無いけど感覚はある、という客観的には絶対に事実と異なるけど僕にとっては紛れもない真実を受け止める時に、突き抜けるような爽快感すら感じてしまう。なぜなら客観的な事実と主観的な真実の間には、当事者性という川が横切っていて、そういった分断によって自分を囲い込んでしまうことが怖い時から。どちらから相手を眺めるのか、その視線を自分がどう受け止めるのかによって川は深くも広くもなっていく。そんな中で僕は障害者という当事者性に自分自身が囚われるのが怖くて、その飛躍をバネに飛んで行こうとしていた。
幻肢ではなく幻肢性。見えない足ではなく、見えない足っぽいもの。誤読のようにずらしていくこの操作は、その川で溺れないためのサバイブ術である。

もしかしたら「青木くんの独特の飛躍」とは「幻肢性」のひとつだったのかもしれない、とも思えたのだ。そうすると、幻肢性は切断当事者だけのものではなくて、誰もが持ちうるものになるんじゃないだろうか。
まるで嘘のようにずらして繋がった言葉やアイディアで相手の懐に飛び込んでみると、自分の周りにあるものを味方にしやすくなる。相手は人じゃなくたって、例えば義足だって、環境だって。自分を騙すんじゃなくて、相手を騙していると思い込ませる。僕が「義足は足だ」と思い込んで使うんじゃなくて、義足に「え?自分は足かも?」と思い込ませてみる。すると義足も「いや、でもこんな使い方ができますよ」って返答してくれることを信じる、みたいな。こうなると自分自身にとっての客観や主観も揺らいでくるようなカオスのように感じるかもしれないけど、それがきっとポイントだ。

まずは自分の中に“わからなさ”を設計することで、分かるものの向こう側へ飛んでいくための距離を生み出す。その間が明晰に分析されていなくても良い。身体や思考に生まれたわからなさの領域によっていつもとは違う遠回りをすることになるかもしれない。飛躍とは別に最短距離じゃない。自分だけの飛躍がその人にとっての切実な創造力を生み出す気がするのだ。
右足の切断は下肢機能障害ではなく、「幻肢性」という特殊効果にだってなる。

幻肢痛を感じ始めた切断直後は、幻肢を伸び縮みさせられないかと考えていたけど、「幻肢性」というキーワードを使ってみることで、伸び縮みは出来なくても周囲の環境に「幻肢」が拡張していくような気もする。
自分への影響(欠陥ですら)を身の回りの状況に浸透させていく感覚が身体の拡張なのかもしれない。

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