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学校の公平と平等について

 娘やそのクラスメイトが結成した3ボンバーズというバンドが配信ライブと動画を作成して先生への感謝の気持ちを歌で届けたいと、スタジオ練習するのに付き合っているこの頃、その配信ライブの件で同じクラスの保護者さんからやんわりとした指摘があった。 

 内容は、学校というパブリックの場所でチラシを配布をするなら全員に平等にした方がいいこと、先生へ感謝の気持ちを込めた動画を作るなら全員が何かしらで関われるものを用意した方がいいといったことだった。動画やアルバムは全ての子どもたちが同じ枚数ずつ掲載されるように毎年とても大変な思いをするそうだ。そうしないと、保護者から苦情が来るとか。

 主体的、対話的な学びは、「そういう」平等と公平性の中で行われるのだと、改めて学校という場所に息苦しさを感じる。

 私は子どもたちがやりたいことをやらせている。
 私は学校の先生ではない。できることは、バンドメンバーとそれに関わる子どもたちの心身の安全確保と楽しく成長する場の提供だけ。

 先生への感謝の気持ちを娘らのバンドメンバーはそんなに持っているのかって言ったら、10言ううちの半分くらいかもしれない。それでも、やっているという事実があり、そこを伴走したい。終わった後に感じるそれぞれの何かを大切に持っていてほしい。そこから次の成長があるはずだから。 

 一方で、感謝の気持ちが0に近くて、そんなことやってられないという子どもだっているはずだ。もしここで私がしゃしゃり出て全員で感謝の気持ちを持つべきだと言ったら、即ち「善」だという大人の都合の良い論理をここで押し付けるということになり、子どもたちの個性は無くなってしまうよね。
 
 いい加減に、みんなでみんなでをやめないと、テンプレート人間の増産を助長していくことに繋がってしまう。 
 
 私は〜しない・できない・得意じゃない・好きじゃないを認めてあげないと、私の好き・やりたい・できるは応援できない。

 私が応援したいのは、本人の主体性。 
 頑張っていこう。
 言い難いことを言ってくれた保護者さんには感謝している。

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