昨夜のラブレター %5

中年の運転手は自身の置かれた不可思議な状況に首をひねりながらも、眼の穴の奥へと続く細道を進んでいた。

眼の細道は割合に平坦で歩きやすかった。その代わりに狭い天井や壁からじんわりと水が染み出しているらしく、微かな音が絶えず鼓膜に響いている。進めないほどには暗くないが、運転手はぬかるみに足を滑らせないために胸ポケットからジッポライターを取り出して火を点けた。辺りを仄白く照らす光が周囲の肉壁や水滴をきらきらと輝かせる。洞穴の天井から染み出す水は時折り運転手の体へひんやりと滴り落ちてくる。壁からの水はゆっくり下方へと伝っていき、小さな川とも言えない流れを足元でつくってちょろちょろと出口を目指して進んでいっていた。

「涙だろうな。しかし、いったい誰の涙だろうかな」

運転手は眼の道が自身のものなのか、裸体のソーコのものなのかわからないでいた。

「おれは確かにここにいるのだからおれの涙ってことはないな。するとやはりあの東洋人の眼のなかってことになる。つまりおれは彼女の招待を受けたわけだ」

奥で裸体の女が手招きしている姿を想起して運転手はにんまりとした。

奥へ奥へと進んでいった先に待ち構えていたのはしかし、予想していた裸体の女ではなかった。一坪ほどの小さな空間に白髪の老人が立っていた。

「ようこそ」

白髪の老人が運転手へ言う。運転手は萎えた返事をして女がどこかに隠れてはいないか辺りを見回した。人の隠れるスペースなどどこにもなかった。女の居ないことが知れると、運転手は自身の状況確認に努めることにした。

「ええと、あなたは誰だろうか。ここはどこだろうか」

白髪の老人は言う。

「お前が知りたいなら構わないが、死をも覚悟してもらわないと困る」

運転手は点けたままでいたライターの火を消してポケットに仕舞いこんだ。

「それは困るね。あいにく死にたくってここに来たわけじゃないんだ」

「ならばさっさと帰るがよろしい。そうすれば私もお前を喰わずにいられる」

「旺盛なこったね。それじゃあ」

運転手は何の名残もなく後を引き返していった。引き返す道中に突然の眠気にやられてぬかるみに突っ伏した。

・・・・・

「青よ。さっさと進んでちょうだい」

女の声で我に返った運転手は車を発進させた。ルームミラー越しにもう一度女を見たが、それきり女と目が合うことはなかった。女は隣で眠るバスローブ姿の男の手を優しく握りしめ、車窓の景色を眺めていた。浅焼けた褐色の横顔に見とれていた運転手はそのとき、つい先ほどの洞穴を進む奇怪な冒険と白髪の老人とのことを忘れてしまった。

亀の甲羅を載せたタクシーキャブは、大勢の歩行者が行き交うスクランブル交差点を繁華街の方へと曲がっていった。ビルディングは徐々に背丈を小さくしていき、毒々しいネオンの煌めく入り組んだ細い路地がソーコの横で過ぎて行く。埃っぽく絡まった排気管や取水管が建物の壁のあちこちに這っている。湿った空気のなか、充血した眼球の持ち主たちが、のろのろと進むタクシーの中のソーコを生気のない表情で一瞥していく。そのうちのひとりが大きな看板を携えてビラを配っていた。ビラを受け取る者は誰もいなかったが、ソーコは窓を開けてその男に手を差し伸ばした。帽子を目深にかぶった男は無言にビラを渡した。B5のチープな紙に白黒印刷されたものだった。

「世界はあなたのものです! 連絡先は○○△△まで! 」

ソーコは礼を言うと窓を閉めた。その様子を運転手はミラー越しにじっと観察していた。そうしてソーコもビラを四つ折りにしてマシューのバスローブの腰ひもに挟むとルームミラーを見た。ミラーに映るタクシーの背後で、帽子の男の持った看板が小さくなっていっている。

「ヴァニティホール ➡ 」




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