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でき太くん三澤のひとりごと その53

投稿 その53

今日、ふと思ったこと。

子どもは「親やまわりの大人のことをよく見ている」ということです。


子どもが学習をしてミスをしたとき、その答えを消して、正しい答えを書き直し、正解にしてしまったりすることがあったりします。

子どもが小さければ小さいほど、その傾向が強かったりします。

小さな子どもには全能感のようなものがありますから、きっとそのような行動をしてしまうのかもしれません。


そういうとき、私たちは「ミスは決してダメなことではない」とアドバイスすると思います。


学習をしていれば、だれでもミスがあるものだし、ミスは自分の能力をレベルアップさせていく「たからもの」だとアドバイスしたりすると思います。


このアドバイスは、正しいと思います。


ただ、そういうアドバイスを何度しても、なかなかミスを受け入れられず、ミスをしたことを隠そうとしたり、何とかごまかそうとしたりするケースがあったりします。


なぜ、何度アドバイスしてもそうなってしまうのでしょうか。


ミスはダメなことじゃない。

むしろ、「たからもの」なのだとアドバイスしているのに、なぜ隠したりするのでしょう。


なぜ、ダメなことだと思い続けているのでしょう。


私はそういうとき、「子ども」に原因をもとめるのではなく、そもそも「私たち」はどうなのかということを考えるとよいと思っています。


もし私たちが毎日の生活の中でミスしたことがあったとき、私たちはそれを「たからもの」だと捉えて、自分の成長につなげているでしょうか。


もし私たちが仕事でミスをしたとき、それを「たからもの」として捉え、自分の成長、会社の成長につなげることができているでしょうか。


もしそう捉えていないとしたら、たぶん子どももミスを「たからもの」とは捉えられないと思います。


なぜなら、毎日生活を共にしているまわりの大人が「ミス」を成長につなげることができていないのですから。


子どもは本当によく見ていると思います。

これは誤魔化しきれないな、と思います。


こんな偉そうなことを書いている私も、どこかで必ず子どもに見られています。

その意味では、私自身も「ミス」を成長につなげることができているのかを日々問われていると思っています。


よく、教育を「共育」という漢字に書き換えたり、育児を「育自」と書き換えて独自の教育理念を発表している方がいますが、そういう方はおそらく今回私が書いているようなことを実感されているのだろうな、と思います。

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