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隣りのお葬式

ここ1週間、旦那の親族が亡くなったり、うちの家の隣のおばあちゃんが
亡くなったりと、お葬式が続いた。そこで改めてこの国におけるお葬式、
いやイスラム式とゴロンタロの風習が混ざったここでのお葬式について
私が考えたことを書きたい。


インドネシアにいると結婚式に御呼ばれする機会がとてもたくさんある。
結婚式シーズン(断食前後)は1か月に4回ぐらい出席することもある。
旦那は1日に2回、朝夕に式に参加したこともある。
それと同じくお葬式や亡くなって3日目、40日目の儀式などに出席する機会も多い。

インドネシアでは「生と死」を本当に身近に感じる。
日本にいたときは結婚式に参加する機会も毎年はなかった。またお葬式も
1年に数えるくらいだった。
お葬式も日本とは違い、イスラムでは土葬する。なくなって24時間以内に、地面に穴を掘って土葬。この地面に穴を掘る作業も結構大変である。身長大の穴を掘らなくてはいけないし、穴は浅すぎてはいけない。だからここでは男性が数人ぐらいでせっせと、シャベルで穴を掘る。そして頭の位置はメッカの方向。墓地は親族や家族と近くや隣に埋めることが多い。集団墓地もあれば、家の敷地内に墓地を準備していたりする。

今日は隣のおばあちゃんが亡くなって4日目である。ここでは亡くなってから1,2,3~7日目までは毎晩夕方のお祈りの後、親族、ご近所の方が
集まって祈りを捧げ、その後みんなで会食をする。
7日間毎晩会食があるので、家族は大忙しである。みんなに振舞うための
食事準備でてんやわんやである。お葬式の規模にもよるが、お隣さんや
ご近所さんの奥さんなど総出で朝から準備したりする。旦那のお母さんが
亡くなったときは、幸いなことにご近所のおばちゃんたちが毎日料理を作りに来てくれた。
話は戻るが、お隣のおばあちゃんが亡くなって、私たちも毎晩お祈りと会食に出席させてもらった。おそらく今晩もだ。お隣は親族がお手伝いに来てくれているようだ。また身内だけのお葬式のようで人手は足りているようなので、私は特にお手伝いに行っていない。それでも毎回食事を準備するのは
本当に大変だと思う。食事を準備したりでそれなりにお金もかかる。
私たちはお手伝いに行かない代わりに、お金を渡した。それぐらいしか
私たちにはできないし、それが必要だと思えた。隣は3世帯14人ぐらい?
で住んでいる。
毎回の会食は大体どこのうちでもメニューは似ている。ナシクニンと呼ばれる黄色いご飯、黒砂糖で炊いた茶色いご飯、唐辛子ソースで和えた鶏肉、
ゆで卵、唐辛子ソースのかかった焼き魚、クニンを使った黄色い野菜サラダ、揚げ春雨とお肉のふりかけ、鶏肉と野菜の春雨スープ、揚げナスの炒め物、鶏肉カレー、バナナ、伝統菓子などが並ぶ。毎回メニューは少しずつ
変わるが、これらの料理が床に並べてあるので自分のお皿によそって食べるスタイルである。
そして食べ終わったら、少しおしゃべりをしたりしてその後ホスト先の
ご家族に挨拶をして帰宅。小学生くらいの子供達は料理を運んだり、
お客さんの食べ終わったお皿を片づけたりお手伝いをする。まだ幼い子供
たちはワイワイ遊んだりしている。

こうやって故人に思いを寄せ、みんなで集まり悲しみを分け合うことが
大切なんだなと、最近思うようになった。

日本でも昔はお葬式は家で行われ、近所のお母さんたちが料理を作ったり
したものだよ、と亡くなった母が言っていた。ここではまさにそうである。
日本では今は葬儀場で式をするところが増え、下手すればお隣さんが亡くなった事を後で知るなんてこともあるそうだ。
日本にいたとき、私はなるべくならばお葬式など悲しい式には参加したくないと思っていた。しかし人間は生きている以上、死は避けて通れない。
お葬式を通じて「死」と直接、向き合うのを恐れていたのだろう。
しかし今は少し考え方が変わった。避けて通れないもの。必ず人間には死が来るのだからこそ、ちゃんと向き合わなくてはいけない。避けることはできないのだ。

隣りのおばあちゃんもきっと天国から見ているはず。おばあちゃんとは直接お話した機会は1回しかないけれど、夕暮れ時テラスの椅子に腰かけていた姿を思い出す。
おばあちゃん、みんなでおばあちゃんのお葬式をしましたよ。
今日はおばあちゃんが亡くなって4日目。おばあちゃん、天国でゆっくりなさってください。