素材主義について(概念編)Ⅰ

皆さま こんにちは

今回は前回の記事に引き続き、
学生時分に書いた「芸術運動と素材主義」について
簡潔に書いていこうと思います。
※卒論はそのあとの個人的な素材主義の研究において原点のような役割をもっております。それから月日が経ちましたが、これからの展開をつくるために、もう一度回帰してみよう、見える化しようというのが今回の試みです。

そのまま書き写してもいいのですが、なるべく分かりやすく、回想的に、ここに記したいと考えています。
では一章ずつ行きましょう。

タイトル『芸術における「マテリアリズム」とは何か
~舞踏とアンフォルメルを巡って~』

目次
はじめに
第一章 マテリアリズムとは何か
 第一節 マテリアリズムを定義する
 第二節 マテリアリズムの先駆的存在
 第三節 マテリアリズムの独自性
 第四節 問題提議

はじめに
 はじめに、では論文を書くきっかけが書かれています。
 「私は近頃、芸術の分野で表現主義的で自己解放的なムーブメントが姿を消し、物質的なものの見方、表現媒体そのものの物質的変容を研究する画家、舞踊家が注目されるように感じてきた。〈中略〉
 そこで私はこの物質的な表現媒体に注目し、その先駆的存在として舞踊では「舞踏」、絵画では「アンフォルメル」の芸術運動を取り上げ、これらがもっている思想や概念の中に「マテリアリズム」を見出し、この概念を深めたい。第一章では「マテリアリズム」を定義し、第二章では「舞踏」について、第三章では「アンフォルメル」について考察したい。」
 と書いています。自己解放ではなく、そのままの存在としての芸術。

第一章 マテリアリズムとは何か
第一節 マテリアリズムを定義する。
 「マテリアリズム」を定義する。1つ目はその語源から見ていきたい。
 「マテリアリズム」は「material」と「ism」という語から成立している。「material」の語源は、「materia(物質・起源)+alis(の)>mater(母)」であり、「ものごとを生み出すもの」とされる。「material」の意味は「原料、材料、生地、資料、データ、用具、道具、人材」を意味する。「ism」は主張を意味する。この2つが重なり「マテリアリズム」となる。

 この論文で扱う意味として、「マテリアル(芸術作品で扱われる表現媒体、即ち、作品で扱われる素材」と「イズム(主義主張)」を重ね「素材主義」、つまり、「素材の“在り方″を追求する主義または思想」を意味する。これを「マテリアリズム」と定義したい。
 ※この論文では、芸術分野における「マテリアリズム」を考察するため、哲学・宗教学で扱われる「唯物論」とは区別する。

第二節 マテリアリズムの先駆的存在
 第二節では、マテリアリズムの先駆的存在として、2つの芸術運動「アンフォルメル」と「舞踏」について、その概観を見ていきたい。

 初めに、「アンフォルメル」とは、1950年代にフランスを中心に観察され、特に絵画自体の存在に目を向け、石膏や砂、プラスチックなど様々な素材を用いて抽象的な絵画世界を拡大、進展させた運動であり、これを評論家ミシェル・タピエらが主唱した概念である。
 ここで重要なのは、絵画の基本的な姿勢-何かの対象を描く-という方法に問いを持ち、絵を描く行為そのものや、絵画自体の存在そのものの姿に目を向けたことである。
 主な作家として、ジャン・デュビュッフェ、フォートリエ、ヴォルスなどを先駆的存在としており、1950年代に日本関西で起きた「現代美術協会(具体)」もその一員と認められている。
 アンフォルメルは1950年代に興った芸術運動で、1960年代になると多くの作家がその表現方法を取り入れたため、次第に影響力を失っていく。だが戦後美術史に新たな表現を築いたことは紛れもない事実であり、今もなお議論の余地が残されている。

 次に「舞踏」とは、1960年代に東京で興った前衛芸術の一つである。1961年に、土方巽という人物が《土方巽DANCE EXPERIENCEの会》という公演で、自らの踊りを「暗黒舞踏派」と名付けたことから始まった。
 一般的に流行した、西洋の”天に向かうバレエ”や裸足のイサドラダンカンなどが打ち立てた”身体を外へ解放するモダンダンス”のアンチテーゼ(反対となるテーマ)として、極めて内面的なダンスとして説明されることも多い。舞踏は、本質的には、土方巽自身の秋田の原風景、幼いころの記憶や体験と西洋異端文学、美術をモチーフとしている。つまり日本文化と西洋文化の混在からその肉体が紡ぎだされたようだ。
 全身は白塗りで、手足を胎児のように縮めて床の上に転がっている胎内瞑想が舞踏の”原型”である。その舞踏は、石膏を身体に塗り、知覚過敏のように痙攣する身振りを見せる。このように舞踏は、「身体」を掘り下げることで、骨や髄、神経、感覚あらゆる知覚を目覚めさせ身体知を拡張した。
 舞踏は同時代の文学者、美術家、芸術家に影響を与え、1970年代から多くの舞踏家が海外へ進出し、現代では世界各国でBUTOH FESTIVALが開催されるなどの世界的な広がりを持つ。

第三節 マテリアリズムの独自性と問題
 マテリアリズムの問題とは一つに、意味が広義であることだ。解釈の仕方によれば「質感にこだわりをもった芸術家」は「マテリアリスト」と呼べることになる。いや、しかし、ここで区別したいと思う。美術の分野で言えば「マテリアリズム」はキャンバスに油絵具という”通常の形式”とは異なり、絵画自体に疑問符を打つことだ。したがって絵画自体の素材性をあらわにしている芸術家が「マテリアリズム」と言える。
 もう一つの問題は、先行研究の総評にならないかという問題だ。たしかに「舞踏」「アンフォルメル」については、すでに先行研究されている内容だ。しかし、その両者を「マテリアリズム」と称して、この芸術思想を論じた研究は存在しない。
 このような点から「マテリアリズム」の独自性を理解することができるだろう。

第四節 問題提議
 本節では、異なった二つの芸術運動を「マテリアリズム」と称することに対して、その「舞踏」と「アンフォルメル」を見ていく前に、この論文としての道筋を立てたい。
 まずはじめに「マテリアリズム」という考え方は、扱う芸術作品の素材を追求する思想のことである。芸術作品において”それ”はどんな”要素”で構成されているのか。その”要素”とは何か。(例えば、エレキギターの演奏者で、エレキギターを弾かずに、(シンセサイザーをつないで)エレキギターを触ったり、軽く叩いたりすることで生まれる音を追求している音楽家もいる。)

 そのように「マテリアリズム」は、現代を生きる作家の”アイデンティティ”を”発芽”させる可能性を秘めていると考える。それは芸術家として「描くとは何か」「踊るとは何か」と問いを持つことで、創造されるものでもあるのだ。これから紹介する「舞踏」と「アンフォルメル」の芸術運動を振り返ることで、この「マテリアリズム」について考察したい。
 私はこの「マテリアリズム」を再考することで、未来へ向けた新たな芸術運動の促進となると考えたい。

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はい。一章が終わりました。
ずいぶん端折ったり、まとめたりしている部分はありますが、
まだまだ序章です。これから「舞踏」と「アンフォルメル」について、
またそこから「マテリアリズム」を再定義するところまで、
Ⅱ、Ⅲ、Ⅳと分けて見ていきたいと思います。

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