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コントラストがはっきりしているからこそ境界線を曖昧にできるのだ

ここ何年か「境界線を曖昧にする」や「awai:間、淡い」という言葉を使っていますが、今日はそんな話をしようと思います。

このnoteの音声ver.はこちら。

「『well-being』とか『多様性』って言葉が出てきていて、社会的にも白黒つけないとか、はっきりさせないとか、答えを出さないみたいな風潮になってきているよね〜」って話を先日誰かとしていました。

みなさんはこれについてどう思います?

今日のタイトルにもあるように、2者のコントラストがはっきりしているからこそ境界線ができるんですよね。その「間:awai」に自分(たち)が位置することで境界線を曖昧にするという考え方ができる。

「well-being」や「多様性」という言葉によって「2者のコントラストをはっきりさせてはいけない!」と考えるような人が多くなってきているような気がしていて、そこに対するかすやの考えを伝える今日のnoteです。

たぶん、みんなが思っているほど、社会は綺麗じゃなくて、ドロドロしていて、汚いところもいっぱいある。

誰かが心地よいと感じる言葉は、誰かにとっては不快になるし、その逆もある。誰かが心地よいと感じる場所は、誰かにとっては不快になるし、その逆もあるよね。

納豆はご飯にかけて食べる派が大多数(かすや調べ)ですが、僕は納豆はご飯にかけたくない派です。これを言うと信じられないと言う顔をされます。

こんな感じで。ちょっと極端すぎるか。

つまり何を言いたいかと言うと、僕らの暮らしにはいっぱいの濃淡ができていて、いっぱいの2者に分けられるものや人やことがあるということで、これらを、「それじゃあダメだ、みんな一緒の考えになるためにはどうしたら良いか考えようぜ!」みたいな声がいっぱい聞こえてくると、気持ち悪くなっちゃうと言うこと。

それはそれでいいの。きっとそれらも、今日と明日では濃淡の差が変わっていると思うから。
僕もたまには納豆をご飯にかけてみても良いかなと思う時があります。

2者の間の濃淡がたくさんあって、日々濃淡が変化している世の中で、その「間:awai」に何かをしかけることで、「どちらか」ではなくて、その時によって「どっちも」選択できるような社会になったらいいな〜というのが僕の考えです。

その境界線に僕自身を位置付けることもあれば、フラスタだったらコーヒーや本、「たまれ」だったら、ズッコロッカやLanternやノウト、LICだったら看護やリハ、ケアマネとかがある。

境界線が曖昧になって2者の行き来ができるような社会、でもしたくない人は濃淡をはっきりさせたままでよい社会、そんな感じ。

今日もめちゃくちゃ抽象的な話をしてしまいました。

またね。

photo by しげを

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