映像を書く


小説を書くとき、私の脳内にはいつも映像が流れています。実写のような映像のときもあるし、アニメのような質感の映像のときもあります。

とにかくカメラの視点がめちゃくちゃ動いてズームになったり離れたりと切り替わるので、いつもどこまで詳細に文章化すべきか悩みます。すごくノッているときはそんなことは一切考えなくても脳裏に浮かぶ映像がスラスラと文字に変わってくれるけど、行き詰まっているときは映像が浮かぶのに文章化できないという現象に陥ります。私の頭の中をそのまま見せたい!ともどかしくなります。

脳内で再生されるのは一人称と三人称が混ざったような、ちょっと説明するのがややこしい映像です。
私はいつも主人公やその他の登場人物の背後に立ったり、全体像をぐるりと回って様々な角度で覗き込むこともあれば、映画のスクリーンを観ているような感覚に近いこともあります。ミニチュアの世界で繰り広げられる登場人物の人生を覗いている、という感覚にもなったりもします。
ちなみにどの感覚でも冒頭で書いたように、実写っぽかったりアニメっぽかったりと混ざっています。ある程度作品の雰囲気によって映像のタイプが変わるのかなと考えたりもしたけど、今のところ法則性は見つかってないですね。自分の脳内のことなのに謎すぎる……。

しかも映像が神視点になっていたとしても、出てくる文章は一人称なんです。まともに三人称で書いたことはありません。一度くらい三人称に挑戦してみたい気はするけど、映像から三人称の文章が浮かんでこないから文章化するのは相当大変だろうなぁ。浮かんでくる映像が変わったら、文章の人称も変わったりするのかな。どうすれば脳内の映像や文章が変わるかわからないけれど、いつかは三人称に挑戦するのが目標です。


そうそう。
物書きさんのブログやツイッターなどを覗いていると、執筆する際に動画が浮かぶ人、静止画が浮かぶ人、漫画のコマ割りが浮かぶ人、文字として浮かぶ人、など様々なタイプの人がいる人と知りました。
私としては読書をしているときも映像が浮かんでくるタイプだったので目から鱗です。なるほど、脳内イメージって読み手や書き手によってこんなにも違うのだなぁと。でも、だからこそ想像って楽しいのだなと実感しました。

同じ一文を読んで脳裏に浮かべる情景は異なるし、同じ情景を見て描写する文章は千差万別。
異なる素敵な作品が世の中に多数存在している時点でこれはある意味当たり前のことなのだろうけど、私は自分以外の書き手さんや読み手さんの創作秘話や体験記を読まない限り、もしかしたらこの事実に気付けなかったかもしれません。みんな同じものを見ていると、勘違いしていたかもしれない。気付けてよかった。

絵でも文章でも映像作品でも、作り手の想像をアウトプットした形のひとつだと考えると、創造することもそれらに触れる機会があることも、何だか不思議というか、すごいことだなと思います。いろんな人の、いろいろ違った感性に触れられるって、コミュニケーションのひとつみたい。ましてやたくさんの想像の中から、自分が好きな想像の世界を選んだり探したりして楽しめる。

私はそういう創作の好きが一致する瞬間が、読み手としても書き手としても嬉しいです。普段から私は市場調査もせずに自分が好きなものをとことん書いているだけなので、そうして好き勝手生み出した作品でも見つけて気に入ってくれる方がいると、とても嬉しいし幸せです。
もしかすると私と読者さんの間では作品の詳細なイメージに違いはあるかもしれないけど、それも一興として互いに付き合えるのが一番いいなと思います。

逆も然り。自分が読み手でいるときも、解釈の違いがあることを忘れずにいたいなと思います。



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