片耳を失って10年。不自由さから見えたこと

2011年3月9日、私は片耳を失った。もうすぐ大学卒業をひかえる21歳、春のことだった。
病名は「聴神経鞘腫(しょうしゅ)」、耳の神経にできる腫瘍のことだ。
治療の方法は2つ。放射線治療か、開頭手術。

わたしの腫瘍は顔面神経の近くにあって、大きくなれば確実に影響すると言われた。そうなると顔が歪んでしまうらしい。

「あなたはまだ若いから、せめて顔面神経だけは守ってあげたい。だから確実な治療の開頭手術がいいと思う。」

開頭手術…頭を、あける?

「なんで、なんで、なんで」

「こわいこわいこわい」

病院から帰ってきて母に伝えるとき、平静を保っていたかったけどダメだった。子どものようにボロボロ泣いてしまった。

3月9日、私の左耳にさよならを

いよいよ手術の日、3月9日。
家族や大切な人に手を振り、手術室に入ったあと嗚咽した。
看護師さんがまるで赤子をあやすように慰めてくれたことを覚えている。

手術室は、ドラマで見るように真っ青だった。
どうしてあんなに青い世界なんだろう。

全身麻酔を打ってもらい、「効かないな」と思っているうちに手術が終わっていた。

手術の時間は約9時間。手術室からICUに移動すると、家族が待っていた。
意識が朦朧とする中、覚えているのは
泣き出しそうな母の顔と「サラウンドは聴こえるって!」と言う弟の声。

「なぜ今サラウンド……?」そう思いながらも、私は目を閉じた。

それは解離だったのか、旅だったのか

術後の私は、しばらく目を覚さなかった。
痛みで飛び起きたりうなされたりすることはあったが、意識はほとんどなかったような気がする。

それもそうだろう。私に悪さをしていた腫瘍はややこしい場所にあり、頭蓋骨を少し削り、小脳は一度外の世界を見たのだから。

絶え間ない目眩、頭痛、吐き気。
そして、夢か現かわからない不思議な感覚。

私はずっと空を飛んでいた。暗くてぐるぐるとした空もあれば、真っ青で明るい空もあった。
ふわふわ気持ちよく飛んていたような気もするし、急降下や急上昇を繰り返す地獄のフライトだったような気もする。

意識が戻らない間、私の顔は土気色だったらしく
「この子が死んだ時はこんな顔なのかしら」
そう思ったと母は言う。
たしかにあの2日間、私は少し死んでいたのかもしれない。
黄泉の国への門をたたいたものの、怖くなって逃げたのか。

ともあれ、人間の頭はそう簡単に開けていいものではない。
心からそう思う。

2011年3月11日、東日本大震災発生

手術から3日経った日、未だに朦朧として生きる屍のような私は車椅子に乗せられMRI検査室へと向かった。

余談だが、この病気で初めてMRIを撮り何度もその中に入ったけれど
あれは本当に輪切りにされているような音がしてあまり好きではない。

MRIを撮り終え、さあ帰ろうと準備をされていたその時、何かが起こった。
14時46分頃、大規模地震が発生。
後に聞くと、東京でも天地がひっくり返るような今まで味わったことのない揺れだったそうだが、私には記憶がない。

エレベーターが止まり、若い担当医の一人が私をおぶって病室まで連れて行ってくれたことはうっすらと覚えている。

ちょうどその日は、母と祖母が来ていて2人の焦燥した様子を横目に見ながら眠りについた。

片耳生活で生まれた不自由さ

こうして私は片耳難聴者となった。
肝心の腫瘍は7割ほど切除し、幸いにも顔面神経に影響も出なかった。
聞けば、私を担当した医師は神の腕と呼ばれるスーパードクターだったらしい。腫瘍も良性で安心した。

診察時の医師が早期発見をしてくれたことや、神ドクターが手術をしてくれたこと、たくさんの幸運が重なったことに感謝でいっぱいだ。

片耳の聴力はほぼ失ってしまったが、生活が大きく変わったわけではない。
どれくらい聞こえないかというと、
今まで聴こえていた音がTVの音量28だとしたら、5くらいになった感じだ。

右耳では聴こえるドライヤーの音が、左耳では聴こえない。
うっかり左耳を伏せて寝たら最後、目覚ましの音が聴こえず寝坊してしまう。

それでも右耳は聴こえるので、パッと見た目では普通に聴こえる人。
日常会話にも支障はない。
しかし、その中途半端な不自由さは生活のしがらみとなっている。
精神的なストレスも増え、叶わないことも出てきてしまった。

誰かで並んで話す時は相手の左側をキープしなくてはならない。
4人以上でテーブルを囲むときも左端を確保できなければ、少なくとも3分の1の会話は聞き落としてしまう。

テレビは字幕がないとなかなか聞き取ることができない。字幕が出ない上に声量が小さい映画は諦めることも多い。

新卒で入った会社では、電話取りが多くとても苦労した。右利きだが右耳しか聴こえないので、左手で電話を持ち右手でメモをする。
電話中は周りの音が聴こえないので、先輩から話しかけられると泣きそうになった。というか泣いた。

地味に困るのが、音の方向がわからないこと。
遠くから呼ばれるとしばらく探してしまうし、スマホを見失うと捜索にかなりの時間を要する。
道を歩いていて、後ろからプリウスが近づいてきた時は気づかないことが多く、よく轢かれそうになる。

コロナ禍でマスク生活になってからは、困りごとも増えた。
片耳難聴でも、読唇術が自然と身に付き結構頼りにしていたので
マスクで口元が覆われてしまうと音だけで情報を得なくてはならない。
声が小さめな方には、何度も聞き直してしまいいつも申し訳なく思っている。

半分障がい者になって見えてきたこと

片耳難聴者になってから、いわゆる“普通”ではなくなった。
そもそも“普通”は何を基準にしてそう呼ぶのかは個々人によると思うが、
私の生活においては障害となることが増えてしまった。

目に見えてわかる不自由さではないので、「聴こえないこと」で人を傷つけてしまうことがある。

私が聞き取れず会話が噛み合わなくなり、相手が「???」となったり
話しかけられても気づかず、不本意ながら無視してしまったり
不快な想いを与えることが増えてしまった。

不用意に誰かを傷つけたくないので、ある程度関係性が生まれそうな相手には片耳難聴であることを事前に伝えるようにしている。

反応は様々で、毎回気遣ってくれて座る位置や聴こえを気にしてくれる人もいれば、「片方は残っているからいいじゃん」と言う人もいたし、心ない対応の人もいた。

みんな悪意なんてどこにもないと思うけれど、半分障がい者になって見えてきたのは “想像力の有無" が人によって異なることだ。

私は、想像力のある人たちに救われてきた。
片耳難聴にならなければわからなかったやりづらさというのは、両方聴こえていたらきっとわからない。しかし、困り事に耳を傾け考えてくれる人は多くいる。

どこか、「聴こえないこと」に申し訳なさを感じながら過ごしていたから、思いやりが心からうれしくてありがたい。
そして自然と思いやれる人たちを見て、自省する機会にもなっている。

自分とちがう何かを理解するのは難しい。
「わかる」状態になることって、ほとんどないだろう。
その中でも、考えてみることや想像することはできるのだ。
当たり前のようで、できる人はそう多くないと感じている。

どんな時も、まず一度想像ができる人でありたい。

当たり前は当たり前じゃない

この10年を振り返り、ひとつ言える事がある。
「当たり前はいつだって当たり前じゃなくなる可能性がある」

10年前、私は当たり前に聴こえていた世界から半分聴こえない世界の住人となった。
10年前、東日本大震災がおき昨日まで当たり前に一緒にいた人と会えなくなってしまった人がいる。
10年前、福島で昨日まで生活していた場所が一変してしまった人もいる。
5年前、熊本の地震で命や住むところが失われ
3年前、西日本豪雨で甚大な被害を受けた人たちがいる。
1年前、新型コロナウイルスにより私たちの当たり前の生活は当たり前でなくなった。

不慮の事故、病気、想定外の被害……毎日きっとどこかで
昨日までの当たり前を失っている人がいる。

この10年でもうひとつ感じることがあった。
「失ったものは簡単には戻らない」

壊れてしまったもの、変わってしまった日常を元に戻すために一生懸命頑張ってくれている人たちがいる。
しかし、どうにもならないこともあるのだ。
亡くしたもの・失くしたものを取り戻すことは難しい。

私はきっともう左耳の聴力を元に戻すことはできない。昔のように聴こえる状態にするのは、生きている間は難しいと思っている。
便利な道具はあるけれど、元通り同じ状態にすることは叶わない。

だから、
今ある大切ななにか
当たり前と思っている状況
手を離さず、ぎゅっと守っていてほしい。

それがキラキラと輝いていなくても、すごく素敵に見えなくても
なくてはならないものならば、心を離さないでほしい。

日々生きていると色々なことが起こるから、つい忘れてしまうけど
大切なものを見失わないように
当たり前におごらないように
この先10年も生きていこうと思う。

この10年、色々なことがあった。
あの地獄の苦しみを乗り越えた後、社会の波にもまれながら
同じ方向を見ていける人と夫婦になり、3人の男の子の母となった。
片耳が聴こえないことも当たり前になった。

学生から大人へ、妻となり、親となる度に背負うものが増えたけど
失くしたくない大切なもので溢れている。

忙殺される毎日の中、人を傷つけてしまうことも手を離してしまいそうになることもある。

2021年3月を迎えて、改めて色々なことを考えると
きっと恵まれているこの状況に、感謝しかない。

生きていると、「もっともっと」と望むことにエネルギーを使ってしまう。
向上心はもちろんなくてはならないけれど、
望みが叶わず心がささくれだった時こそ、足元に目を向けなければいけないと思う。

大切なものは何か
自分を支えてくれる当たり前の存在への感謝
もし何かを失ったとしても生きていく強さ

私の大切な3人の息子たちには、これだけは伝えていきたい。
それが半分聴こえない私のできることだと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?