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夏目漱石の「こころ」は小説としての構成が終わっている。

高校生の時にはじめて読んだ「こころ」を、久しぶりにフィリピンで読んだ。海外放浪中でやることがなかったので、小説に飢えて、スマホに青空文庫のアプリをインストールした。昔の旅人は日本から持ってきた本を読み終えたら、旅先で出会った人と交換していたらしい。自分が全く手も出さなかった山岳小説や詩集なんかを偶然手にするのを想像すると、新しい世界が開けるようでロマンを感じる。いまではスマホを持っていればKindleで新著も読めるし、青空文庫のアプリを入れれば古典の名著も楽しめる。交換する必要がない。いや、本を読むと言うだけで既に(現代の日本では)かなりのマイノリティになってしまうのかもしれない。

とはいえ、本は読みたいので青空文庫を開いた。芥川龍之介の「河童」を読んでカッパ市民がクワクワ言うシーンにニヤニヤしたり、カフカの「変身」を読んで錯乱状態の家族にニヤニヤしたり、モーパッサンの「初雪」でどうしても動かない夫にニヤニヤした。こう書くととても陰湿な人間だと思われるかもしれないが、山本周五郎の「泥棒と若殿」で胸を熱くするような一面もあることは伝えておきたい。

本題に映るが、夏目漱石の「こころ」を再読してみた。高校の授業で読んだが、やはり微妙に内容を忘れている。忘れるということは、印象に残らなかったのだと思う。わたしは気に入った本に関してはちゃんと記憶するタイプなので、良い本であれば良かった理由をすぐにでもつらつらと述べることができる。

3回目を読んだ結論から言うと、めちゃくちゃ感動した訳では無いが、この本の持つ独特な引力は伝わってきた。日本文学の代表とされるだけの、いろんな意味での“日本らしさ”があるように思う。これは後で説明する。その上で、やはり何よりも大きい発見だったのが、「こころ」は小説構成が壊滅的だということだ。ひどいと思った。

まず一つ目。「私」がどんな人間なのか全く見えてこない。大学生だという最低限の情報はわかるが、大学でなんの研究をしていて、どんな友達がいて(もしくはいなくて)、どんな趣味を持っているのか。なにも見えてこない。のっぺらぼうのような印象を感じて、気味が悪かった。さらにいえば、安易に読者を近寄らせようとしない、見えない壁を感じた。それこそ「私」が「先生」に持った印象と同じだ。
読者に感情移入させるため、あえて主人公を透明化させるマンガはある。しかし、マンガの消費姿勢はテレビに近い受動的な形であり、小説は演劇に近い能動的な姿勢となる。小説は主人公のプロフィールをしっかりと説明して読者を惹きつけねば、ページを捲らせることができない。ここは小説家として基本中の基本のような気がするが、なぜかそうなっていない。

二つ目。「私」が「先生」を気になった感覚がまったく理解できない。二人の出会いというか、「私」が一方的に「先生」を認知したのは、海だった。浴衣を脱いで海に入って、ちょっと泳いだらすぐ出る。なぜか主人公は気になってしまう。他の人と違う感じがする。…のだそうだ。なんじゃそりゃ。不親切にも程があるだろう。甘い恋愛小説の初恋のエピソードとかなら、その後の甘美な展開を期待して耐えることができるかもしれないが、青年がおじさんに対して、師匠的な存在として興味を持つきっかけとしては説得力が無さすぎると思う。
しかも、最後まで読んでも「先生」がなんの「先生」なのかわからない。家に篭って罪の意識に駆られながらずっとなにかしらの研究をしているらしいが、その実がまったく見えてこない。得体も知れないおっさんをこちらが「先生」と呼ばなければいけないことも腹立たしい。後半になってやっと読み応えある部分が出てくるが、前半においては素性の知れない2人の2歩進んで1歩下がるような関係の進展をひたすら読まさせられる。必死に理解しようと思って読んでいた高校生の頃の自分を思うと、夏目漱石を小突いてやりたくなった。

3つ目。ページ配分が下手すぎる。後半になって、先生のバカ長い遺書を読むことになるのだが、小説を書く上でえらく楽な手法を選んだなという印象を持ってしまった。前半では「私」を主人公に据えておいて、後半では「先生」に変える。小説としては主人公を統一するというのが基本ではある。ただ恋愛やミステリー小説における両視点が機能する場合や、この構成になった必然性があればいいのだが。
遺書というスタイルは非常に書くのが楽だ。言ってしまえば、自分がいまこうやってnoteに書いてくのと基本は変わらない。日記と同じような感じになるだろう。俯瞰したようないわゆる「神」の視点や、第三者である「私」が「先生」の縁の地を巡りながら真実を知っていく構成にすると、風景の描写やいちいちのリアクションなど書かなければいけないことが多くなる。そこで、多少不細工なやり方でも主人公を据え変える方が楽でいいやと判断したのではないだろうか。

4つ目。最後に遺書を読んだ「私」の感想がない。正直、これが一番ムカつく。じゃあなんのために前半の主人公にしてん、という。本来この小説の持ち味は、「私」を通して見た「先生」と、「先生」の秘めた真実との乖離にこそあるのではないのか? それを遺書が終わったらすぐ筆を置き(終わり方もえらくあっさりしたものだったが)、前半の主人公など知ったこっちゃないとほっぽり出されても困る。散々「私」と「先生」の関係を考えた時間はなんだったのか。何度でも言うが、主人公の感想は絶対必要だった。読者は主人公を通して「先生」を見つめてきたわけで、最後に無視されたのはまさに私たちではないのか。「先生」の過去に失望するのか、共感するのか、「奥さん」に言ってしまうのか、それとも聞かれても黙り続けるのか。その人間が選んだ選択肢を私たちは見たいのだ。

さて、それではここで、大きな謎に挑戦したいと思う。なぜここまで構成が終わっている小説が日本最高の文学作品となっているのか。ちなみに、別に私が日本文学の至高だと思っているわけではないが、世間的にはそういう扱いをされているということで、私なりに考えた結果を述べる。

やはり、この小説は「日本人」という生き物をよく描き出していると思う。それなりの善意と優しさは持ちつつ、かといって一番自分が触られたくない大事なところを触れられそうになると、そっと足を引っ掛ける。すぐ謝ればいいものの、言い出すタイミングを逃し続け、一生ジクジクとした痛みと共に暮らしていく。開き直るわけでもなく、それなりにやってしまったことを受け止め、ずるずると引きずる感じが海外文学にはない「味」なのではないか。
正直なところ、私はイマイチ「先生」に共感できなかった。いろんな人に迷惑をかけて生きてきたとは思うが、それでも自分に魔がさしたせいで人の命を奪ったような、弩級にヤバいミスはまだ起こしていない。そういう意味で今の自分は共感できないが、ただもし殺してしまい、それが自分の責任だと【自分だけが】知っているような状況に陥ってしまったら、これは分からないなとも思った。「先生」のように一生罪を償いながら、晴れない心で生きていくかも知れない。それだけのことをやったとも思う。
だからこそ、この小説が読者に語りかける「謝れる時に謝れ」という教訓は、強烈なまでに心に響く。夏目漱石が謝れなかった場合の最悪を提示してきているので、読んだ側は自分を罵りながら生き続ける恐怖に震える。思春期の少年には強いメッセージとなるだろう。当時の自分に響いたかは覚えていないが、とりあえず今の自分には響いた。できるだけ嘘のないように生きようと思った。

そして、「こころ」の中で一番秀逸だと思った箇所はここだ。

私が帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれた私は、その烟の中に坐っている女二人を認めました。私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。

こころ 五十

見事だと思った。そうなのだ、悲しみは美しいのだ。悲劇的な映画を見た後の、自分のこころの清らかさを思いだしてほしい。まるでさも、赤の他人のために胸を痛めることができる、人格的に優れた人間かのような錯覚ができてしまう。それゆえに薄っぺらいのだ。戦争作品や子供の虐待事件でも、そのことについて悲しめる自分の道徳心の高さに惚れ惚れとするだけで、物事の根本からは目を背け続ける。悲しみは哀れみであり、怒りは共感だ。怒りの方がよほど能動的であり、人間的だと思う。ただまぁ、この場面で「先生」に怒る資格も、相手もないわけだが。ここはほんとうに人間の薄汚さが溢れている箇所で、よくぞ書いたものだと思った。この欺瞞性を突いた小説を「こころ」以外に見たことがない。
ただ、「先生」は賢いが故に、自分がその状況で安らぎを感じてしまっていることに気づいたのだろう。その知性が生涯彼を苦しめたんだと思う。ここの前に、自分が同じことをしでかしてしまったら「先生」のようになるかもしれないと書いたが、ずっと俯瞰的に生き続けてきた人間にしかできない芸当かもしれない。一般の人間は葬式の悲しみが自己否定を和らげてくれたり、苦しくなって奥さんに真実を告白したり、また時と共に罪の意識が風化していったかもしれない。いつの時も俯瞰的な人間だからこそ、そこで楽になろうとする自分に気づき、気づいてしまった手前、元いた場所に戻らざるを得なくなるのだろう。これはなかなかに地獄だ。アホになれない地獄と言えばいいだろうか。

さてここまでの主張を総合するが、3回目を読んで私が思った「こころ」の印象は、「大学のことも社会のこともなにも知らずに話の舞台を組んだ世間知らずな高校生が作った、圧倒的な人間の心理描写のみで日本文学最高の地位を確立した小説」になる。小説の要素を五角形で表した時に、心理描写の一点のみがいびつにビンビンに尖っている感じだ。これだけ構成として終わっていながら(表現や描写が終わっていると言うわけではない、最後だけどココ重要)、一点において類稀なる才能を発揮したために並み居る他の名作を押さえつけて一位に君臨していると言うのはなんとも面白い。小説ならではの現象な気がする。

最後までお読みいただきありがとうございました。もし異論反論あればコメントへお寄せください。勉強させていただきます。それではまた。

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