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ジェンダーバイアスへの感度があがったらテレビが見れなくなった

ここ一年、特にこの半年くらい、ジェンダーバイアスへの感度がだいぶ高まりました。
その結果、テレビ番組が違和感だらけで全く見れなくなりました。

そしてこれまで自分に投げかけられたり耳にしてきて違和感を持ったけどスルーしていた言葉たちや行動たちを今後はスルーしてはならない、と今強く思っています。というか、「勉強も仕事も良いけど子ども早く産みなよ」と言われたりしたことをこれまでスルーしてきた自分にムカついてます。それこそテレビや小説の中だけど思ってるかもしれないけど、まじで言われるんだこれが。

感度が高まった理由はいくつかあって、一つは「障害」についての権利運動をしていてもジェンダーバイアスだらけの発言をしていたり、別の障害種への偏見だらけな場面に出会したりして、あれ、自分もそうなってないか?と思ったこと。「自分はマイノリティのことを分かっている」という自負が一番危うい。

根底にあるのは等しく同じ「人権」なのに、自分が関わる属性やカテゴリのみにawareだったり感度が高いだけでは社会の側の障害はなくならない。

あとは上に書いたように日常の中で自分が思ったより違和感を抱いても、結構我慢していたことに気がついたこと。私はまあまあ自分の意見をズバッと言う方ではあるけれど、やっぱり男性が多い中では言いづらいし、利害関係があると尚更言えない。スルーした方が楽だと思ってしまう。そういう時は流せ、と自分に言い聞かせてきた。

さらに身近なホモソーシャル発言や行動、「男なら強くあれ」にもだいぶ疑問を持っていたこと。それが根深い問題だということにも気が付いた。

怖い、寂しい、自分に自信がないなどの気持ちを男子が口にすることを「女々しい」と嫌う男らしさの価値観は、体罰を受けたり、いじめられたりすることで生じる錯綜する感情を否認し、抑圧します。「男だったら泣き言を言うな」「女々しい奴」といった慣用句に表される男らしさを美化する社会の通念を、武士の血筋であることを誇りに思い、木刀で息子に懲罰を加えていた父親が体現していたことは想像に難くありません。

ジェンダーバイアスの眼鏡をかけてテレビを見たらテレビの中はそういう発言だらけて気持ち悪くなってそこからテレビが見れなくなった。いまや、「なぜ何の違和感も抱かずこれを見れるのか...?」と思う。

いまの時代の子どもたちはあまりテレビを見ないのかもしれないけれど、もし見ていたら、「男なのに○○」とか、容姿を貶したりとか、女性を性的対象にしかみていなかったり、そういうメディアにばかり触れていたらそれが当たり前になるのはもっともだし怖い。
私も一年前まで本当に麻痺していた。頭では知っていたしていたかもしれないけど。たくさんの人を傷つけていたんだろう。まずは自分が麻痺していることに気がつくところからはじめよう。 

イギリスではジェンダー不平等を減らすために、広告にジェンダーに関するステレオタイプを載せることが禁止されたとのこと。例えば、家族が散らかした部屋を女性が片づけて男性は足を上げて座っていたりする描写や、性別により特定の何かができない(女性は車を駐車できない、男性はおむつを替えられない)描写など。

メディアはもちろん、学校教育が作り出したバイアスも大きい。インクルーシブ教育は、障害などの特定の属性の話から、本当に多様な子どもたちの話へアップデートせねば、と強く思う。

ジェンダーの他にも、家族制度への疑問や経済格差、情報格差、移民問題、ホームレス状態にある人への支援など、これまで目を向けていなかったことに向き合い学んでます。特に少年院との関わりでは、複雑な問題が絡み合っており、一つの分野で解決できる問題じゃない。
なかなか根深いが非常に興味深い。興味のある人、同じ問題意識のある人話しましょう。
特に公教育におけるジェンダー、経済格差、移民問題などのテーマに取り組んでおられる若手専門家と知り合いたいです。声かけてください。

※写真はばあちゃん(97歳)の塗り絵シリーズ

#ジェンダー #インターセクショナリティ #人権 #マイノリティ #社会課題  

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