「多様な子ども」がいることを前提とした教育へのアップデート
以前書いた「『同じ場にいる』のみでは『インクルーシブ教育』と呼べない」には、「インテグレーション」と「インクルージョン」の違いについて書いた。
今日は、インクルーシブ教育の背景にある考え方についてと、定義について補足する。
以前、サラマンカ宣言などのユネスコ文書から引用し、私がいつも使っている「インクルーシブ教育」の定義を以下のように書いた。
インクルーシブ教育とは①子どもたちは誰もがニーズがあることを前提とし、その多様なニーズに地域の学校で対応することができる教育システム、そして③そのようなシステムを作るプロセスそのものである。
ここでは「誰もがニーズがあることを前提し」という言葉を入れている。その背景には、いわゆる「障害」の「社会モデル」の考え方がある。すなわち、障害が「その人にある」という考え方ではなく、「環境との相互作用の中にある」という考え方。
誰もが環境との相互作用により、何らかのニーズ、ないしは困難さを抱えている。身近な例でいうと、職場を変わる時。これまでの職場では特に困難さは生じなかったが、新しい環境では困難さを感じる。自分も変わるし、環境も変わる。その双方がうまく調和しない時には、当然のように困難さが表出する。職場だったら自分に合っている環境に転職すれば良いかもしれない。だが、どこに行っても「不調和」であり続けたらどうだろう?それはとてもしんどいはず。
今の世の中のあらゆる仕組みは、「マジョリティ」を中心に作られている。マジョリティが過ごしやすい仕組み、もしくは「マジョリティ」だったら「我慢できる」仕組み。そのため、医学的な診断名としての「障害」のある人は、既存の仕組みだと過ごしづらい方が多いのが現状。そしてそれは医学的な「障害」のある人のみでなく、外国からこられた方もそうかもしれないし、LGBTの方もそうかもしれない。
教育についても、「多くの人」が学びやすいための教育の仕組みは、「そうではない人」は学びづらい仕組み(今の仕組みは本当に「多くの人」が学びやすいか?というとそれも疑問だけれど...)になっている。
だからこそ、私たちは「大多数」以外の子どもたちも含めた、すべての子どもが学びにアクセスができるような「インクルーシブ教育」の考え方をもって、教育の仕組みそのものをアップデートしていくことが必要。
よく例に出すのが、「運動会」。「運動会」という既存の枠に枠に乗れない子どもが参加できるように、既存の枠を変えずに+アルファの支援をすることは、上記の定義に乗ると「インクルーシブ」とは呼ばないだろう。既存の「運動会」という仕組みそのものが本当に最適なものか?目的・内容・方法を見直し、より多くの子どもが参加し学びにアクセスできるようにするためにはどうしたらよいか?を考えていくことが「インクルーシブ」であるといえる。運動会、そろそろ多様な子どもがいることを前提とした行事にアップデートしてもよいのではないだろうか?
次回はいいかげん、日本におけるインクルーシブ教育システムの構築について書こうかな、と思います。
今後書くことのメモ
・権利条約への批准
・日本の「インクルーシブ教育システム」における「場」の考え方
・基礎的環境整備と合理的配慮(と人権教育)
参考文献:
UNESCO(2017) A Guide for ensuring inclusion and equity in education.
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