「障害受容」という言葉の身勝手さ
今日は仕事にて専門家の方々とディスカッションをする会。多方面からアドバイスをくださる方々がいることがものすごく心強い。「中」にいるとその中でしか考えられなくなるから、定期的に「外」から違和感を言ってもらえることは超大事。対等に、よりよくするための議論を、まっすぐできる、そういう関係性はわたしをいつも救う。
終了後にお茶をしている時に、「障害受容」という言葉の身勝手さについて話した。
思い出したけれど、わたしは学部時代から「障害受容」に関する研究が嫌いで、学会のポスター発表で見つけると、つっかかっていた気がする...(ツンツンしてたあの頃の話)
いまでも「あの保護者は、あの人は、障害受容ができていない」という言葉を聞くとプッツンしそうになる。
その言葉は、まるで「障害」を「受け入れる」ことのみが善であること、そして「受け入れ」ていないことはその人が悪いかのような、そして「受け入れ」ないと、支援ができないような、そんな印象を与える。上から目線極まりない。そもそも何をもって「受け入れている」と定義するのだろう?どう評価するの?
困難さは関係性の中にある。しんどい状況があるのであれば、その背景にわざわざ「受容している」「していない」と評価することに意味があるのか。
仮に定義を示し評価するとしても、その「受容していない」要因は確実に環境にある。保護者やその人を責めるのではなく環境へ働きかけたい。
そして、「障害」に関わらず、そもそも人は「受け入れる」ことは難しいことを前提としておきたい。
あなたも受け入れられないなにかがあるはず。わたしも受け入れられないなにかがある。
目を背けたいなにかがある。逃げたいなにかがある。
それを他者から「受け入れられてないね!」と言われ「受け入れましょう!」と言われて果たしてなにかが良い方向に変わるのだろうか。
※写真はオランダ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?