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自分のわがままと他者の尊重は両立できる

ここ何年かは、人に対して「わがままだ」「やる気がない」と全く思わなくなった。というか、その言葉をもって人を弾糾することの無意味さを知ったから使う必要がなくなった。 マジックワードだと思う。都合が良い言葉。

人間はわがままなものだし、やる気がない時もある。やりたくない時はやる気でないよ。機嫌が悪い時もあるし、めいわくだって超かける。結構弱いものだし、間違うことなんてしょっちゅう。

だいたい、何かに異常なこだわりを持っている人は大抵「わがまま」だもの。それを貫き通した先におもしろい取り組みがあったりする。
私も見方によっては「わがまま」に見えるんだろう。というか超わがままだと思う。自覚していますとも。

「やるべきことやってからやりたいことやれ」「みんな我慢してるからお前もしろ」とかも言われるけれど、そんなのつまらないしくだらない。やりたいことやったらいい。自分の人生なんだから、自分で決めたらいい。 しんどかったら逃げたらいい。

もちろん誰かのそういう決断によって私や周りがしんどい思いや嫌な気持ちになるのであれば、それはそう伝える。その人を「わがまま」や「やる気がない」「お前が悪い」とラベル付ける必要なんてない。「あなたが超やりたいことをやるのには、私わりとしんどいのだけど、どうしましょう...」と言って相談したいい。お互いに。そして、私の「わがまま」とその人の「わがまま」はぶつかるかも。お互い言えるだけの信頼関係ほしい。

そして、「わがままである」と「他者を尊重する」はちゃんと両立する。自分のやりたいことをもち、それを貫き通しながら、相手や周りの人も尊重する。人権の侵害と「わがまま」は別物。人権の侵害はダメだよ。

自分のわがままを大切にするとともに、他者のわがままも大切に。

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Forbesの記事にもやんわり書いたけど、よく「障害か?やる気がないだけか?」とか「障害か性格か?わがままか?」とか聞かれるけど、障害があろうとなかろうとやる気ある時もない時もある。わがままな時もある。
その質問の背景には「障害があるんだったら仕方ない」ってのがあるんだろう。障害がないなら努力しろ、とか?障害があってもなくても努力も回避もその人が選択できたらいい。「障害」を理由に「努力しなくていい」ってのはそれはそれで違う。

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「こうあるべきだ」という呪いこそが、不寛容さをつくっている。余裕のなさが不寛容さをつくっている。自分が我慢してると、相手にも我慢を要求する。自分がやりたいことができていないと相手にも同じことを要求する。「組織」や「立場」があると、やりたいことやっちゃいけないと思ってる。そういうのが蔓延している。
そうやって、「誰かのせい」のキャッチボールになる。

一見「もう、わがままだなあ」と思っても、「まあ、そこまでやりたいならやったら?」「やりたくないならやらなければ?」って思えたら。

なんか、まだうまく言葉にできないんだけど。本当に多様な人が内包されるインクルーシブな社会を考えていると、だんだんこういう考えが出てくる。

写真はばあちゃん家の猫。

#日記 #コラム #インクルージョン #寛容

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