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『イレイザーヘッド』(1977年、デヴィッド・リンチ)

グロテスクで、腐敗臭がして、バッドトリップだった。だが、これ「も」なければ、映画は面白くない。何がどうなったからどうなるのかがわかってしまったら、失われるセンサーがある。映画の中でくらい、そんなロジックは脇に置かせてほしい。リンチはこの作品を通してとりあえずそう言っている。

この映画が世に存在しているからといって、我々を日々がんじがらめにする現実の理屈は一向に消えやしない。現実の機序にとってこの作品は何も悪いことはしていない。だけど、このバッドトリップを経てしまった我々は、現実を一歩出し抜いている。この出し抜いている感覚を残すためだけに、この作品には存在してもらわなければならない。

どうやったらこんな脚本や設定が思いつくのか、皆目見当がつかない。夢で見た意味不明なストーリーをそのまま書き出し、現実世界でやれるだけやってみたら、こんな作品になるだろうか。おそらく一番金がかかっているのは途中で出てくる肉肉しい鳥の雛なんじゃないかと思うが、あのグロテスクな雛をめぐる男や女のアクションは、子供を授かってしまったカップルにありがちな憂鬱の一端を抽象化して示しつつ、何らかの存在がメトロノームのように我々の人生を支配し、逆説的にリズムの綻びを生み出していく様を描く仕掛けにも見えた。

鳥の雛の計算し尽くされたチープ感と動きの独特さ、そして音を生み出すために労力と資金が割かれたと想像するが、全体的なロケーションが絶妙だった。インダストリアルで退廃的な地区にある薄汚いアパートの雰囲気が、建物自体からも家具の感じからもありありと伝わってくる。それでいて、具体的な場所を連想することはできず、どこか現実離れした架空の空間であることを保っている。モノクロの色彩感も含め、ネオレアリスモ的美学を導入しているかに一瞬見えるが、このある種の社会性を連想させる序盤の描写は、物語が進んでも大きな文脈形成にはつながっていかない。

衝撃を受けた要素はいくつもあるが、その中でも強かったのは、途中で出てくる舞台のような場所で、チープな踊りにさらにとんでもなくチープな歌詞を重ねて口ずさむ女性が登場するシーンだ。耳に残って仕方がない、5歳児の英語力で十分に組み立てられそうなあの歌詞が、破壊力抜群だった。要素を簡略化すればするほど、想像の余地は膨らみ、ストーリーのあらゆる箇所に対して連想の種を植え付けることができるということを学んだ。あの歌詞を口ずさみながらあのアクションを取ることを脚本で知ったJeanne Batesは、最初どんな反応をしたのだろうか。

あまりにも多くの要素が繊細なバランスで成り立ちながら、ありがたくも我々にグロテスクな感覚を催させるよう、正確に設計された作品だった。様々な美学的前提を逆手に取ることで、鑑賞者を誘い込み、裏切り、少しだけヒントらしきものを注入していく。それにより積み重なる感情の揺らぎと期待が一定の厚みをなしたとき、一気に物語を分解するような脱構築的要素が爆竹のように投げ入れられる。ただ、爆弾ではなく爆竹なので、物語は結果的に分解されず、また前に進んでいく。その先に、何もないかもしれない不安と心地よさのアンビヴァレンスを携えながら。



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