人生で1番つらかったこと。

祖父母と叔母の愛情をたくさん受けて育った私は、ひとりっ子だったというのもあり、今思うと、わりとワガママに育っていたように思う。

どういうワガママかと言うとたくさんあって思い出せないけれど、若い時は、まだ家族に受けた恩とかをしっかり感じ取れないでいたし、いつもの日々が、ずっと永遠に続くと思っていた。

失ったことがなかったから、失う悲しみやつらさを、まだ知らずにいた。

だから、今日の間違いは明日どうにかすればいいし、私は私のままで別にいいやと思っていた。

この日が来るまでは。


・・・


それは高校三年生の5月のこと。


確か金曜日だったと思う。


朝はいつも叔母が起こしてくれていたのだけど、珍しく寝坊?したみたいで、ヤバい、遅刻すると思って、急いで叔母を起こしに部屋に行った。

博子さん!

呼んでも返事がない。

博子さん!寝坊だよ!

何度か呼んでも、返事をしない。

そっと頬に触れて、気付いた。
おかしいと思った。体温が違う。
触った感じも変。
でもすぐわかった。

叔母は、布団の中で、眠った姿のまま、亡くなっていた。

私はへなへなと血の気が引いたようになったけれど、立ち上がってなんとか母を起こして、博子さんがおかしいから、起きてと言った。

母は寝ぼけていたけれど、起きて、博子さんを揺すりながら、名前を呼び続けていた。
でも起きない。

状況がわからないまま、とにかく救急車を呼んだ。


そのあと、祖父母に電話をして、博子さんが具合悪くて(と言わないと、運転中に事故したら困るので)お母さんが一緒に救急車に乗って行くから、くれぐれも気をつけて来てと伝えた。

祖母はだいぶ取り乱している。

心臓はまだ激しく鼓動していたし、血の気は引いたままだったけれど、とにかく学校に電話して今日は欠席しますと言った。

しばらくして救急車が来て、叔母の蘇生が始まった。
でも、正直、頬に触れた感覚で、あーもう生きてる感じじゃないと思ったし、ダメなんだろうなと思っていた。

救急隊員に心臓マッサージをされながら担架に乗せられて、狭い家の階段を降りて行く時に、叔母の足の指が、壁にぐにゃっとぶつかったのを見てた。

叔母が『痛い』って言わない、もうダメなんだ、と、想像が確信に変わる。

母が付いて、叔母は救急車に乗って病院へ。
でもきっともうダメなんだろう。
その時のいたたまれない気持ちは忘れられない。

祖父母が着くまで、それまでずっと1人で家で待っていた。

どうやって叔母のことを伝えよう。
どうやって励まそう。

その時間の、とてつもなく、重くて、暗くて、長かったこと。

途中、何度か祖父母から電話があったけれど、もうダメだとは言えず、わからないから、とにかく気をつけて来てとしか言えなかった。

しばらくして祖父母が着いたけれど、私は本当に思ったことを言えず、まだ全然わからないから、とにかく母の連絡を待とうと、祖母を励ました。
祖母はだいぶ泣いていたし、祖父はずーっと黙っていた。



それから何時間が経ったんだろう。

母から連絡があって、叔母の死が現実になった。
まだ43歳だった。

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