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叔母が亡くなってから。

我が家は鰻の寝床のように細長い立地で、叔母の遺体を階段から2階に上げるのは少し難しかったし、若くして亡くなったというのもあって、お線香やお供物をくださる方の訪問も多かった。

なので、遺体は臨時休業した母の店の椅子を並べた臨時のベッド?に安置された。

私は遅くなったけれど学校に電話をして、担任の先生にしばらく休むことを伝えた。

祖父母は本当にショックを受けていた。
祖父は、まだ何かあると、いると思って叔母の名前を呼んだし、祖母は叔母がまだ生きているかのように話しかけては、泣いていた。

私は、悲しいというより、初めての身内の死にとてもショックを受けていたし、憔悴している祖父母のために頑張らないと、という気持ちが強く、たくさん降り掛かってくる用事を頑張ってこなしていた気がする。

叔母の顔は綺麗だった。
発見した時の姿はまるで眠っているようだったし、布団や着衣の乱れもなかった。
苦しまなかったと思いたかった。

自宅で、遺体として発見されると、身内でも事情聴取される。
午後すぎに来た警察の人は、叔母の部屋をいろいろ調べていた。
第一発見者である私も事情を聞かれ、人の出入りがなかったか、毒などを盛られていないか、家族の人間関係など、本当にいろいろなことを話したように思う。
事件性もなくすぐに聴取は終わった。

店に戻ると、葬儀屋の人が叔母の遺体に大きなドライアイスを置きに来ていた。
5月で天気もよかったし、当時、エンバーミングなどの技術はまだなかったのかもしれない。
寒くてかわいそうと思った。

母の店のお客さんが誰ともなく来て、厨房で枕団子を作ったり、叔母にお線香をあげたり、人の出入りがとても多かった。

私には叔母の存在を共有できる人がそんなにいなかったし、その場の雰囲気から少し浮いて、なんとなくここにいてはいけないような気がしていた。

朝からなにも食べていなかったのに気付いたのは、もう夕方くらいだったように思う。
誰かが近所のお蕎麦屋さんで出前を頼んでくれていた。
本当にその時のことを覚えているけれど、砂の味とはよく言ったもので、ごわごわしてぬるい何かを口に入れるけれど味がしない、という感じだった。
あの時のお蕎麦の感覚は、忘れられない。


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