パリへの扉
数日前、とてもいい時間を過ごした。
お昼にサンドイッチを食べたお店でのことだ。
その店は、二つの通りに面して入口があり、交通量の少ない通りに面した入り口から入るとビストロで、対して、バス通りに面した方は、壁に沿って細いカウンターが造り付けられている立ち飲みバーになっていて、ランチにはサンドイッチを出す。
サンドイッチは、注文ごとに作られる。まずカウンターで注文し、イートインの人は席について待ち、持ち帰る場合はそのままできあがりを待つ。
カウンターの中に立つのは女性一人。彼女が、注文を受け、会計をし、サンドイッチを作って、持ち帰りの人には包んで渡し、イートインの人には席まで運ぶ。
だから少し待つのだけれど、その彼女は、対応がとても丁寧で、待っている間も全く嫌ではなかった。
私は窓際の席に座り、外を眺めていた。前を通り過ぎる人や、勢いよく走っていく自転車、いきなり低空飛行する鳥なんかを見ているのは退屈しなかった。一つも、何か予想していて起こることがないからだろう。窓枠で切り取られた世界に、いきなり現れ、そして消えていく。
私の耳には、斜め後ろに座る女性が、BGMでかかっている曲に合わせて時折歌っているのが聞こえた。その店の空気は、お客さんも含め、どこにもせかせかしているところがなかった。
ひとりで立ち働いている彼女は、手元を見ていたわけではないけれど、サンドイッチを作るのも丁寧なのだと思う。それがサンドイッチの姿と、食べてみたら、味にさえも表れていた。
私は、ドリンクとデザートのついたランチのセットメニューを頼んでいた。
サンドイッチを食べ終わったところで、彼女が私のところにやってきた。
「デザートは、テイクアウトしますか? それとも、今、召し上がりますか?」
結構おなかが張っていたので、テイクアウトできるのは嬉しかった。
「じゃあ、デザートは持って帰ります。コーヒーだけ今もらえますか?」
彼女は「もちろん」と笑顔で応えて、カウンターに戻っていった。
ほどなくして運んできたコーヒーのカップからは湯気が立っていた。そしてすでに紙袋に入れてくれたレモンケーキを渡された。
受け取ると、そのレモンケーキはほんのり温かかった。思わず袋の口から手を突っ込み、ケーキを触ってみる。ほわっとしている。
その温かさをそのままにしてしまうのはなんとも残念に思えて、ひと口だけ食べることにした。生地の締まり加減が懐かしい感じで、結局、受け取った一切れの半分を食べた。
コーヒーのカップは、取っ手がない湯飲み茶わんで、まだ湯気の立つそれを両手で包むようにして持ち、窓の外を眺めながらゆっくりと飲んだ。
支払いがまだだったので、カウンターに行き、会計をお願いした。「とてもいい時間を過ごしました」とよっぽど言おうかと思ったけれど、なんだか、言うことによって壊れてしまう気がして、言い止まった。言ったら、過ごしたその時間よりも、言ったその行為に、重きが移ってしまいそうだと思った。
ただ、とても美味しかったです、コーヒーもすごく好きだった、とだけ伝え、胸の内に広がった思いを抱えたまま、店の外に出た。
すぐに立ち去り難くて、いい時間だったなぁと店を振り返り、その時間を自分のうちに留めておくかのように、何とはなしに動画を撮り始めたら、歩いてきた人がご機嫌な様子で投げキスをして通り過ぎていった。
ふふっと笑って、ほんといい時間だったなぁと、思いを反芻しながら歩き始めた。ふふっとちょっと口角が上がって目尻が下がったその顔が、そこで過ごした時間そのものだった。
・・・・・・
私は、おいしく食事のできる店や、出合ったおいしい何かについて文章を書く仕事をしていて、そういった文章に添える写真は、料理の写真だ。おいしいごはんは人を幸せにすると思うし、自分が体験した”おいしい”を伝えることで誰かにとってのおいしい記憶を引き出したり、おいしい時間を過ごしたいと欲するきっかけになれたら、とも思う。
同時に、情報としてはなんの要素にもならない、例えば、斜め後ろから時折聞こえてきた鼻歌。その時に店に充満していた空気と、人々の話し声、雑音。それら全部のアンサンブルは、とても美味しかったサンドイッチとコーヒーと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、自分を喜ばせたことだ。
そんなアンサンブルを、そこにあった空気を、言葉ではなくて、伝えたりシェアできないかなぁ、どうしたらできるだろう?と、この1年くらいずっと考えていた。
最近の私は、「情報も何も欲しくない」と言う状態になると足を運ぶ店が何軒かあって、食べることの合間にぼーっと過ごしては、自分のリズムを取り戻し、頭の中もリセットして、店を出る。それらの店の扉を開け、空気を感じると、あぁもう自分が取り戻せる、とホッとする。
扉を開けたらホッとできる。そんな場所を自分も作りたい、と思った。
もう何もいらない、何も欲しくない、これ以上何も得なくていい。日々いろいろな情報を求めて探し、自らも発信する生活での、望む望まないとにかかわらず降りかかってくる様々なことから、つかの間ちょっと距離を置くところ。
もしかしたら、私がふと立ち止まって、ぼーっと眺めている川の風景や、空の雲の流れや、窓の外に目をやりながら耳に入ってくる少し離れたテーブルの話し声とその時に目に映っている光景なんかを手繰り寄せたら、そんな場所ができるんじゃないかしら。
それで始めたのが、動画マガジン「パリへの扉」だ。
実在するお店ではないけれど、支払うという1ステップを置くことで、扉を開ける感覚を生める効果を期待して、有料コンテンツにした。
実は動画での定期購読マガジンは「パリの風と鐘の音と。」というタイトルで昨年の9月に開設した。基本的なスタンスはその時から変わっていないのだが、ホッと一息つくお供に...という思いとは裏腹に、少し盛り込みすぎていつも長くなってしまっていた。時間を取らないと見られないものになってしまっていたのだ。
そこで、改めて考え直し、コーヒーブレイクやお茶を一杯飲む間、ちょっとした待ち時間や移動の合間に添うような、3分弱の長さにまとめることにしてリニューアルした。
日々のごはんパトロールで巡っているお店で心がほぐれていったひとときや、橋の途中で”今日もカモメがいっぱいいるなぁ”と立ち止まっては眺めたりしている、流れては消えていくような何の意味もない、パリの日常のシーンをつなげています。お店に来てくれた時に、ちょっとした挨拶を交わすような気持ちで、毎回カードを書いて添えるつもりです。
2月からリスタートしてすでに4回更新したところで、今週末は、一般公開で投稿します。
定期購読は、月に4回更新、と設定していますが、長さをこれまでより短くしたこともあり、6〜7回の更新を予定しています。もし興味を持たれたら、2月分から(過去の月の分も)購読いただけますし、もちろん新たに3月分からでも!
何も得ないために寄り道する場所。よかったら一度のぞいてみてくださいね。
パリへの扉 店主 川村明子
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