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いのちへのまなざし

みなさん、こんばんは。
Akikoです。
いつも長文を読んでくださり
ありがとうございます。

今日もまた立ち寄っていってください。

いのちへのまなざし

「いのちへのまなざし」が人によって
全く違うと思ったのはいつからだろうか。

ここで言う、「いのちへのまなざし」は、
それぞれの人の生きることに対する在り方
のようなものを指す。

同じ生きている状態でも、
「生きよう」「生きたい」とか
「生きている」とか
そこに「感謝」があるとかないとか
「死にたくない」とか
「死ねない」とか
「もう死にたい」とか
「生きねばならない」とか、、
他にもたくさんあるだろうけれど
とにかく、まなざしがまったく違う。

人間なので、お互いが変化する存在として
出会いがあり、そこに反応がおきる。

わたしには、そこで、
しばしば出会う違和感がある。
そのわたしの違和感は
いったい何なのかを考えてみたい。

死の時点

少し話を変えてみよう。

わたしたちは、
何をもって生きていると言えるのか。

大学院で仏教の授業があり、
その問いを考えたことがあった。

死という時点を決めているのは人間。
死は、医師によって、生体における心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔が開くという
3兆候の基準をもって判断される。
死亡診断書に死亡時刻を記され、
その時点を「死」とされているのが現状だ。

でも、医学の進歩、人工呼吸器の普及によって
脳機能が停止しても
心臓停止を回避できるようになり
「脳死」という死の概念ができて
臓器移植ができるようになった。
それによって、死の時点は一層複雑化してきた。

死は本来「ここ」、と
一時点として決められるものではなく
過程だということだ。

日本の倫理学者である香川千晶氏は、
生物学的事実を完全に無視することは
できず、死を勝手に決めることはできない
としながらも、それだけではなく
社会の受け止め方が重要だと示して
以下のように述べている。

死の時点の決定には、誰もが死として納得できることが重要となる。

香川知晶 著.命は誰のものか 増補改訂版.ディスカヴァー携書,2021,p275.


さらに言えば、残された人たちが納得できること
が重要で、そのための「時点」である
とも言えるのだ。

死とは何をもって死なのか

当たり前のことだけれど
「死」という概念を決めているのも人間だ。

脳死のような「見えない死」は倫理的な点から、日本では脳死及び臓器移植について
慎重な姿勢を維持し
時間をかけて議論を続けてきた。

一方で、日本の、どっちつかずで賛成しない姿勢は諸外国から「遅れている」と批判されていた。
それに対し、香川氏は以下のように
投げかけている。

諸外国では日本がさんざん議論してきたような問題点を見過ごしてきただけではないのか。

香川知晶 著.命は誰のものか 増補改訂版.ディスカヴァー携書,2021,p280.


しかし、長年かけてきた議論も
法律化によって、次第に社会通念として
当たり前の事となったことで
弱体化していった。

抜け落ちたものの存在

そもそも人間は、老いていくものであり、
身体的機能は次第に低下していくし、
必ず肉体的な死は誰にも平等に訪れる。
しかし、人間の死を何とか遠ざけ、
生を延長したいという想いが
医療技術を進歩させた。

生が延長され、死が先延ばしになることで、
わたしたちは生の時間を得て
より豊かに暮らすこともできるようになった。
先人のその探求心と努力によって、
わたしたちはいくつもの安心を手に入れて
暮らしている。
それを想うと感謝しかない。

一方で、違和感を覚えるのも確かだ。

それは、何か身体の不具合が出れば、
自分で何か対策を講じるよりも先に、医師に
治してもらう、というような現状の中にある。
このような背景には、国民皆保険制度によって
誰もが医療を受けやすくなるという道徳的価値
が根差している。

「隙間にあるもの」を排除してしまう。

つまり、死という生の延長上に
絶対的にある現実を自分では見ないようにして、
誰かに任せて消してしまうかのような錯覚を
覚えてはいないだろうか。

本来の人間の死に向き合ったときに湧き起こる、
悲しみや孤独、虚しさといった
感情が先延ばしにされることで、
本来向き合うべき大切なことを見落としている
ことも自覚する必要がある。


矛盾しているように思うかもしれない。
混乱するかもしれない。
結局どっちなんだ?と。

でも、ここで言いたいことは
どちらが良いか悪いかという
単純なものではない。

社会で生きていくうえで、「より良くしたい」
という人間本来の欲求があるからこそ、
正しさをぶつけ合うし
「決める」「まとめる」ことが必要となる。

ただ

決めねば進まないことが多々ある
現代社会の中で
決められているものの数だけ、
抜け落ちているものがうやむやになりがちだ

生を延長すべきかすべきではないか
ということに論点を置き、
善悪の判断に議論の重心を据えれば
「決められたこと」「社会で認知されたこと」
が強い権力を持ち、すべてを善で覆い隠し
正当化されてしまうということ。

では、どうしたらいいのか。
どうしようもないのかもしれない。

でも、諦めて開き直ってしまっては
元も子もない。

抜け落ちたものを、無いものとするか、
それを前提としての決断とするか
に大きな違いがある。

そして、
その決断は正直にひらかれていることと、
「志」のような在り方の軸が必要だと
思えてならない。


その志に根差した在り方があるのかないのか
によって

ルールや規範を受け遂行する側が
決められたことだから、という理由だけで
遂行するのか

その議論の中の本質を知ったうえで
ルールを重んじるのか

行動レベルにおいて、両者に大きな意識の差がはっきりと表れる。

これは、コロナ禍における感染対策にも
通じるものではないだろうか。

コロナ禍の面会制限と祖母の死

ここで、社会の有り様や人の他者に対する
在り方において、
ありありと違和感を感じた出来事があったので
お話しようと思う。

それは、以前にもnote記事で書いた、
コロナ禍で亡くなった祖母のことについて
の想起になる。


祖母は、コロナ禍の2021年12月、
持病の心臓病が悪化し、94歳で亡くなった。
祖母は、川と山に囲まれた高齢化のすすむ
過疎地で、20年以上前に祖父が先に
旅立ってから一人で暮らしていた。

毎日、畑に出向いては土と触れ合い
育てた野菜を食らい
近所の方々と挨拶を交わし
縁側で腰を掛けては話すことを楽しみに
今日あったことを日記に記し日々の暮らしを
丁寧に紡いでいた。

自然と共に暮らすことは
祖母にとって生きることそのもの
だったように思う。

しかし、持病の心臓病が徐々に弱り、
コロナ禍という特殊な環境の中で
大切な人に、思うように会えない孤独と
死が近づいている不安や恐怖からか
過呼吸を繰り返すようになった。

家に帰っては呼吸が苦しくなり、
救急車を呼んで入退院を繰り返して
もう動けないという状態になった。
在宅医療も充実していない地域。
病院が祖母の最期を過ごす場となったのは
必然だった。

一等親である母や叔母たちには
面会が許されたが、孫のわたしは
2等親という血縁の濃さによって壁で区切られ
面会は認められなかった。
1等親であれども、1日2人まで、15分以内
という制限。

「人生の最期」の特別なものだと
思っていたのは、患者側にたつ者だけだったと
思い知らされたのだった。

それでも
3歳から同居し、母親同然に育ててくれた
祖母との関係性を話し、陰性証明をもち、
病院に行ったが
当日主治医から面会の許可はおりなかった。

経営上のリスク管理において
規則やルールを簡単に破ることはできない。
それは、話し合いを重ねた上での
ものであるはずだから。

ただ、簡単に「そうなんだ」と
納得のいくものではなかった。

患者家族の立場から
人生の中で
「最期に一目でも会いたい」「触れたい」
という願いが、自分以外の何かによって
打ち砕かれるなんてことがあるとは
思ってはいなかった。

人生何が起こるかわからない。

祖母は、わたしが小さい時、
いつも手を握ってはさすって、
その手に安心を覚えた。
私も、そうしたかっただけなんだ。
最期に祖母にここにいるよって安心させて、
ありがとうって言いたかっただけなんだ。

そんなささやかな願いへの叫びが
何か大きな圧力のなかに沈めらて
うやむやなままになったように感じたのだった。

人は自分の生の最期に何を思うのだろう。
祖母は何を思ったのだろうか。

しかしながら、ここで断っておくと、
わたしは看取りに立ち会えなかったが
祖母から受けとったものは変わらず、
私の中で生き続けている。

だから、もちろん感情の揺れはあったものの、
その欲求を満たせなかったことで
病院や社会に批判したいという話では全くない。


ここで問うているのは
人のいのちに対する姿勢、在り方についてだ。


これは、先にもお話した通り
ルールとしての決めごとを遂行するときに、
「抜け落ちた何か」を前提として捉え、
それをもってしても
志から行動しているという姿勢があるのか、
ということ。

もっと言えば、
目の前の1人のいのちに対して敬意があるのか、ということなのだ。

他人事になってはいないだろうか。

人としての生き方や在り方という、
目に見えないけれど大切なものに
見て見ぬふりをしていないだろうか。

「できない」ことを、
「できる」ようにするかしないかではなく、
その現実に対し真摯に向き合っているのか
なのだ。

その在り方があるのならば、
人と人とのかかわり方が変わり
その人やそこに起こる出来事へのまなざしが
変わるだろう。

自分で決めるということ

自分のいのちの尊厳をもち生きていれば、
他者のいのちも決して粗末にはできなくなる。


人間が人間たる所以、人間らしさを、
いかに備えているかについては
職業や立場は関係なく
その人の在り方そのものだ。

人間が他人事にするのはいとも簡単なこと。

臓器移植を例に挙げても、自分はそんな事態に
ならないだろうと思うだろう。
でも、確実に医療が進歩し医療機器によって肉体的に長く生きることが可能になった。

だからこそ、あっけなくはかない命でありながらも、簡単には消えない命であるという
相反することが複雑に両立する。

人間いつ死ぬかはわからない。
若くして消えていく命もたくさんある。
一方で、命が選べるようになったと感じる場面がこれから多々増えるだろう。

食べられなくなれば、
胃に管を入れて直接栄養を流し、
生きることができる。
呼吸が自分でできなくなったら、
器械によって人工的に空気を送り
生きることができる。

それをあなたはどこまで望むのか?
あなたの大切な人はどう?

一筋縄には答えられないのではないだろうか。

自分のことはそこまでしなくても、と思う反面、家族となると、とたんにそうはいかなくなる。
現実としてイメージができないことは
正直なところかと思う。
それを無理やり考えるのは現実的ではない。
リアリティがないままに、ネガティブな思考に
偏ってしまう可能性があるから。

ただ、言えるのは
このような「こたえ」のない問いに直面した時に
人の在り方は表れる。

自分はどう生きるのか

自分の大切な人に対してどう在りたいのか

大切なのは
、表面的な状況が何であろうと、
自分のいのちにつながり、敬意をもって
決めていくことだ。

それは、特別なことではなく
ただその時の自分がやれることと、
やれないことを受け入れ
決めていくシンプルなプロセス
だ。

そして、その過程で
周りの他者に伝えていくこと、
その中でお願いすることや断ることなどが
出てくるはずだ。

その他者も、同じように、
やれることと、やれないことを
プロセスにおいて決めているのだという前提が
あれば、そのかかわりの結果に対して
過剰な執着は生まれないだろう。

敬意

人は人と関わりあいながら生きている。
自分は特別でありながら
特別ではない。
その特別感を満たせるのは自分自身なのだ。
それは自分への敬意につながる。

わたしの違和感の正体
いのちへの敬意の不在。

それが正しいかどうかではなく
わたしは、いのちへに敬意をもって生きたい
と望んでいるのだということ。
それを他者に強要はしない。

でも、自分に対して敬意がない方とは
分かり合えないだろうから、距離をおく。
それは私への敬意であり、相手への敬意。

社会で生きていくのは、
たくさんの違いがあるからこそおもしろいし、
学びがある。

ただひとつ、そこに互いの敬意があること
前提なのだ。

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