ワーグナー・プロジェクトをめぐるあれこれ②

"『ワーグナー・プロジェクト』ーニュルンベルクのマイスタージンガー" at KAAT 神奈川芸術劇場
10月20日(金)~10月28日(土)
http://portb.net/wagnerproject
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ワーグナー・プロジェクト!いま思考すべき問題系のるつぼ!!的な
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22日(日)、26日(木)、28日(土)の回参加。
今になってもやっぱり聴き逃した全部のレクチャー、ワークショップ、Broadcast聴きたいと思う。そしてライブも。

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やっぱりアイヌの神謡(カムイ・ユーカラ)とか、以前「スケッチ・オブ・ミャーク」という映画で観た沖縄の宮古島や池間島のほうのおばあたちの伝承される唄とかには、あるなぁと。語りと唄の間というか。 でもいまそういうのが日本で若い人たちからまた出てきているというのがまた面白い‥Hip-hop。

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夜明け前に暴風が窓を叩く音で目を覚ます。 お年寄りの人たちとワーグナー・プロジェクトのワークショップを受けて廻る夢を見たw

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ワーグナー・プロジェクトの空間は、始め居場所も居かたもわからなくてとても居心地が悪いのだけど、自分なりの居かたを見つけるある瞬間からなんだかとても楽しくなってくる。またあの空間に身を置いて多重・多層に生起するものごとを見届けてみたいと思う。

あれは与えられた自由でなく(そこを入り口として)自分で獲得した自由だから、ことさらに自分でも心地よく、離れたあとも心に力を与えてくれる、そんな気がする。 帰宅後前より心が自由で、日々がより愛おしく感じる自分がいる。

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斉藤斎藤さんのお話でふむふむと思ったことをノートに記していたら、隣で9才の娘も何やら熱心に書きつけている。覗きこむと10体程のドラえもん。‥彼女も言葉とはほど遠いところでこの混沌とした空間を感じ自分なりの居かたを見つけようとしていたのかもしれない。

整理して感想を述べるなどというのとはほど遠いところで、行き帰りの長い道のり含めいろいろなことを9才の身体で感じたのだろうと思う。 今日になってようやく聞けたところでは、彼女がいちばん興味を惹かれたのは‥

‥実際釘付けになって見ていたが、ラストのSnipeさんのライヴ・ペインティングだったらしい。

補) 前日の山田亮太さんのワークショップを受けての、同じ3分程の映像を見て見たものの描写、その二回目、そして三回目は感想・感情を交えてそれぞれ10枚の小さなカードに時間を区切って言葉を書いていくという斉藤斎藤さんのワークショップを娘と、やってみるだけという形で場外参加したのだが、自分としてはその殆どの言葉の凡庸さに呆れた一方で、三回目でようやく鉛筆が動き出した娘のものを後から盗み見たら(最近は何でも"見ちゃだめ!"と言う)面白さに驚愕した。衒いない素直な言葉たち。やはり子供の感性には敵わないものがある。

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日曜日にワーグナー・プロジェクトに行ったとき片耳で小林恵吾さんの建築の話を聞きながら吉田雅史さんのビートのワークショップを聞いたので、なおさらイメージのなかで視覚と聴覚が多層に多重に重なりあい記憶に残った。

その後斉藤斎藤さんの短歌の世界から観るラップや詩の世界のワークショップを聞き、ひとつひとつの事柄に丁寧に寄り添うそのワークショップが時間切れによりZeroくんたちのライヴやサイファー、MC バトルのタイムに覆い被さられるようにしてロビーへと移動していくそんな様もめったに目撃できない多層さ、言えば混沌があった。出来事と出来事が直接ぶつかる様子を普通劇場で、つまり観客として見ることはめったにないことなのだろう。

いま思っていることは、帰宅後もあの多重多層な空間/体験への感想がずっと継続し、またそこに日常生活をおくることで、身体のあちこちでいろんなレベルのいろんな声が聞こえてくるようだ。それぞれがいろんな自分との出会いでもある。

ひとの暮らしひとの身体ひとの思考というのはほんとうはそういう風に、いつもいろんな声がしているものなんだということを発見している。 そして街も。

そしてその隣で娘がドラえもんを書いていたように、たとえ隣のひとや自分の娘であってさえも、感じ考えることは人それぞれということにあらためて気づく。 これが磯崎さんや高山の言う'祝祭'とか、'広場'ということなのかなと考える。 そしたらそれが'学校'であっても全然良いのだと思う。

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というか'学校'がこういう風であってもいいのではないかということ。ワーグナー・プロジェクトの空間にありまたそれぞれが獲得するものである'自由' は、'好奇心'と一体になっていて、それこそがじつは'学び'の軸であるということ。

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いろいろまよったが結局3才と9才を連れて劇場へ向かう今。 1人産んだら1人で2人、2人産んだら1人で3人の母親の身体性。 いつまで続くか知らんがw

今回はさすがに元Port Bパフォーマーとしての血が疼く訳で、やっぱり最後まで見届けないわけにはいかないなと。

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昨日は頑張って最終日に行ってほんとうによかった。"ワーグナー・プロジェクト"をひとまず自分の中でも終わることができた。ともかくも"ニュルンベルクのマイスター・ジンガー"の街の人役であった訳で。 さてここから何を引き継ぎ発展させていくか。私の街/日々の暮らしで。

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パフォーマンスのスケールが、人類史を、意識しているとしか思えない精度。知的で、野生的で、そして美しかった。GOMESSさん。

という布施琳太郎さんの感想を受け

そう考えるとラップって人類史の発展に関わっているのかもとさえ思えてくる。ひとと言葉との関係。言葉との関係性の多様な可能性。 ひとはもっと鳥のように言葉を発せられるのかもしれない。 それはあるいは回帰なのかもしれない。意味の飽和からの。

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なんの助けもなく舞台に立つってほんとうに大変なことだと思う。クルーのメンバーたちほんとによくがんばったと思う。 これからこの体験をどういうふうに育てていくのかな‥

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ワーグナー・プロジェクトが'スクール'だったとして誰が学んだのか、それは'私'だ。 もし私があのクルーのメンバーだったとして、最後の日のあのライブ空間に立つことを想像してみる。9日間の言葉の横溢で多分一度完全に自分を見失っているだろう。ラップというキーワード、即興性。

即興性とはなにか。単に出たとこ勝負ではない。場を感じること。場を感じる力。耳を澄ます気持ちで、あの場に立てるか。 そこで私の中からどんな唄が出てくるのか。出会ったことのない唄に出会えるだろうか。それとも唄い尽くした懐かしい唄が出てくるだろうか。それを'今''この場で'唄えるか‥

いずれにせよ失敗する試みだ。ただ私がそこで何に出会えるか、場を共有する人たちとともに何処かへ行けるのか。「joikを唄っているときだけ私の心は故郷に帰る」"サーミの血"のエレ・マリャの言葉を想い出す。その場を私の、あなたの故郷に変えることが出来るか‥ ああ唄の本質を学んでいる。

ヘテロトピアという言葉を想い出す。何処か異なる場所。唄の力はそれなんだ。何年も歌い、何年も歌えなかった日々を経て今ようやくわかる。 サーミのjoikも節にのせて今ある出来事を唄う。ラップの魅力もライブごとに変わるその開かれた即興性にある。唄の成り立ち、その依って立つ場所。

それがとても重要。けっして閉じないこと。それが大事だ。いまけっこうラップしてる気分で文を書いてる。言葉を紡いでいる。問題は速度じゃない。どれだけ前へ進めるか。それが重要。止まらないで前へ進めるか、それが重要。何を掴めるか、それが重要。

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今日の満月はうす雲の向こうで微笑んでる。 あなたの町ではどう見えるかな。

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