人への痛烈な思いは自分への強いメッセージ
粘り強くて、ガッツも行動力もある友人が、珍しく諦めかけて弱気になっていました。
人を滅多に頼ったりしない人が、頼ってくれたのも嬉しかったし、そうやって弱音をはいてくれたのも嬉しかったのです。
私のこと信頼してくれているのだなと。
そして同時に、私は絶対に諦めないと強く思ったのです。少し前までは可能性を信じていられたのに、全く結果が出なくて、私も少々弱気になっていました。
しかし「自分には縁がなかったと諦める」
その言葉を聞いて、私がそんなことないって証明する。諦めかけている人のことを、諦めない、本人より信じることができたのです。
感情だけでなく、直感、そして普通に情報収集もして、家を出てから20分位で、ずっと出会えなかった見つけられなくて、手にできなかったものをあっさり手にすることができたのです。
何がこんなに変わったのかなと考えた時に、浮かんだのは昨日の駅のホームで100円を拾って駅員さんに届けたことがきっかけだったと思ったのです。
幼い頃、砂場で拾ったわずかな小銭を交番に届けたこと。あの時に向けられたおまわりさんから向けられた信頼。
家でも学校でも私は全く信頼されていなかったと思います。自分自身でさえそうだったのですから。実際に、悪いことが起きれば疑われたし、信頼される係や委員などにもなれたことがありませんでした。
選ばれることなんて全くない、いつもあまりもの。
そしてそんな生活から抜け出すのは、頑張って努力して信頼を得るしかないと思ったのです。
確かに信頼を得られるようになりました。
しかしそれは無理をした、人に合わせたり、背伸びした自分だったのです。
毎日疲れて、大好きだった音楽のこともどんどん詳しくなくなってしまいました。朝起きることさえ難しくなっていたのです。
そう決意したら、拾った100円だったのです。
褒められたかったからでも、認められたかったからでもなくて、自分がそうしようと思ってした小さな頃の思い出。
私は、信用されないことがどれだけしんどく、心がやさぐれていくのか知っています。
だからこそ、社会に出ても、子どもたちと関わってもとにかく信じることを優先します。
余計な口や手はできるだけ出さない。ギリギリまで本人たちが自分でできると信頼します。
あなたは優しいから、いつも笑顔だから子どもたちに好かれるのだと言われたことが何度もあります。
しかし彼らが私に好感を持ってくれたのは、子ども扱いしない、1人の人として信頼して、見守ってきた、偽ったり嘘をついたりしないでそのままの自分と向き合ってきた結果なのです。
人はそれが嬉しいと思うのです。
友人は私にとても感謝していました。
私もとても感謝しています。
今日の経験から得たメッセージです。
最後までお読み頂きありがとうございます。