連載小説『エフェメラル』#2
第2話 月の女王
火星を出発してから2か月が過ぎた。先日の騒動からすでに3週間経っている。謎の集団に襲われてからしばらくの間、ユーヒは恐怖が抜けずに無口になっていたが、1週間程でその口にはいつものお喋りが戻った。一方、あとから乗ってきた男、その男は自らを『リン』と名乗ったが、リンは自分から人に話しかけることが全くなかった。エマやユーヒが声をかけると、「ああ」とか「いや」とか、二文字の単語で会話を終わらせた。人生で話す文字の数が決められているのかと疑いたくなるくらい口数が少ない男だった。
「さて問題です。この船の持ち主は、一体誰でしょうか?」
エマはできるだけ平穏を装い、赤毛の長い髪を頭の後で一つに束ねながら、リビングでくつろいでいる二人に問いかけた。
「えー、そんなの決まってんじゃん。エマのだよ」
ユーヒはソファに寝転びながら、何を今さら、とでも言いたげな顔をエマに向けている。
「おい。そこの無口なデク野郎。なんか答えろ」
リビングの隅に置いてある一人掛けの椅子に座って本を読んでいたリンは、本に目を落としたままエマを指差した。
「だったら何かやることあるだろ?掃除するとか、食事作るとかさ。船の食料をただ食いするだけで、一緒にいてもクソの役にも立たねえやつらだ。ネコ以下だぞ」
エマは毒づいたが二人の反応はない。月に着くまではあと数日。エマは居候の二人と仲良くなるつもりなど毛頭なかった。たまたま乗り合わせた、赤の他人だ。会話を切り上げたエマは運転席に座ってラジオをつけ、お気に入りの古いジャズを聴く。まあ、いい。あと数日でこいつらともさよならだ。エマはそう自分に言い聞かせた。
エマたちが向かっていた月は、宇宙に進出した人類の最初の入植地であり、それからずっと、宇宙生活の中心として栄えている場所だ。宇宙に進出した当初は、有害な光線を遮る壁を大量生産できなかったため、月の都市のほとんどが地下に作られた。入植したときから掘り続けられた月の地下空洞は高層ビルも建てられるほどの深さで、人工の海や森も存在する。そして地下空洞の天井部には柔らかで強靭な繊維で織られた布状のスクリーンが設置され、地球の空の映像が映し出されている。入植初期の人々は、暗い月の地下世界に、地球と同じ環境を作ろうとした。街は地球の古い街並みが再現されたもので、地球に住んだことがないエマのような現代人にとっても、どこかノスタルジーを感じさせる場所だった。
「あ、あれかな?エマ、あの青い星が月なの?」
船の外を眺めていたユーヒが振り返ってエマに聞いた。
「バカ。あれは地球だよ。人類の故郷だ。まあ、あたし自身は、この広い宇宙そのものが故郷だと思ってるけどな」
エマも久しぶりに見る地球の青さ目を奪われた。人間の本能なのだろうか、地球を見ると心が安らぐ。宇宙生まれのエマは何とも言えない複雑な想いを抱いた。月は今、この青い星の裏側にある。ここまで来れば、月は目と鼻の先だ。エマは心底ホッとしていた。ドライブインで襲われてからというもの、エマはまた何者かが襲ってくるのではないかと気を張っていたのだ。船には、おそらく戦闘訓練を受けているであろうリンも乗っている。船の倉庫には十分な武器の備えもある。いざとなれば、身を守るために戦う準備はできていたが、敵襲は無いにこしたことはない。仕事で預かった荷物と居候二人を降ろせば、エマはやっと元の気楽な1人の暮らしに戻れる。
地球の脇を抜け、ようやく月に接近し、入港ゲートとの通信で許可を得た後、トラックは月の地に着いた。エマは仕事で預かった荷物を引き渡すために、入港ゲートにある荷物引渡し場所に向かい、引き渡し相手方のチェックを受ける。荷物の引き渡しを終えたエマは船に戻った。次は、役に立たないお荷物を船から降ろす番だ。
「んで、お前の目的地はどこなんだっけ?」
「ええとね、私の居た施設の関係で、『マイルス商会』っていう会社に行くんだよ」
「ああ?それって宇宙でも一、二を争う大企業じゃねえか。知ってるか?そこのボスは会社の利益のためなら手段を選ばない冷徹な女で、『月の女王』とか『月の魔女』とか呼ばれてるんだ」
「ん、そうらしいね。でも、この宇宙には国なんて古い概念はもう存在しない。エマも学校で習ったでしょ。だから、その人は女王でも魔女でもない、ただの敏腕経営者なんだと思うよ」
「会ったことないから実際のところは知らねえよ。でも、月世界、つまり宇宙の中心の経済を牛耳っている企業のボスだってことは間違いねえ。そんな会社、お前みたいな田舎者が行くようなところじゃねえぞ」
「そんなこと言ったってさー、私はその女王様に呼ばれたんだよ。ご指名。理由はよく分かってないんだけど、うちの施設の代表が言うには、すごく大きなプロジェクトに関わる話らしい。でも正直、あんまり興味無いんだよね。知らされたのは、私が適任なんだって話だけ。もう一つの目的は、私からちょっとしたお願いをしに行くこと。まあ、これは叶わぬ願いかもしれないけど」
エマと会話を続けながら、ユーヒは出発の準備をする。いつの間にか、ユーヒの傍らにはリンがいて、ユーヒの様子を伺っている。
「リンはユーヒについて行くのか?」
「仕事ですから」
リンが二文字以上の言葉を発したのは何週間ぶりか。もしかしたら、初めて会った時以来かもしれないとエマは思った。しかし、仕事っていうのは、どういうことだ?まあ、二度と会うことのないやつらのことなんて、どうでもいいけどな。エマは心の中でそう呟く。
「そうか。じゃあ、ここでお別れだな。お前らの目的がなんだか知らねえけど、せっかくここまで連れて来てやったんだ。目的は果たすんだぞ。ユーヒ、その願いってやつ、叶うといいな」
「ありがとうエマ。この恩はどこかで必ず返す。だから、さよならは言わないでおくね。というか、エマが寂しかったら連絡してくれて良いよ。話し相手になってあげるから」
「アホか。お前のお喋りはもう一生分聞いた。十分だ」
「いやいや、違うよ。私がエマの話を聞いてあげるの。こう見えて意外と聞き上手なんだよ。施設では、子どもたちの相談役にだってなってるんだから。悩みがあったら聞くから呼んで。連絡先は、さっき教えたとおりだから。よし、じゃあそろそろ行くね」
ユーヒはそう言うと、スパッと踵を返してエマのトラックを降りて行った。リンは無言で目を伏せ、一礼してユーヒの後を追った。
「なんだよ、リンのやつ。最後くらいは笑顔で『さよなら』とか言うもんだろうが」
二人を見送ったエマは次の仕事を探すため、月のトラック組合の事務所に向かって月の街に歩き出した。市街地に入り、しばらく進んだ街角にバルを見つけたエマは、その中に吸い込まれるように入っていった。そして、冷えた生ビールを注文して、一気に喉に流し込んだ。
☆
エマの船を離れたユーヒとリンは、月の大企業『マイルス商会』本社ビルのエントランスにいた。受付の若くて小奇麗な恰好をした女性従業員に要件を言うと「案内の者が来るのでしばらくお待ちください」と機械的な対応。エントランスに置かれた長椅子に少し距離を置いて座って待つユーヒとリン。沈黙に耐え切れず、ユーヒが口を開く。
「そういえばリン、あなたはどうして私と一緒に来たの?いや、別に嫌だって言ってるんじゃないんだよ。むしろ、心強いと思ってるし。でも、なんかさ、悪いなって思ってんの。あなただって、やりたいこととか、会いたい人とかいるだろうし」
ユーヒの問いかけにリンは反応しない。
「最初に会ったとき、私のことを守ってくれるって言ったよね。旅の安全は保障するって。でもねえ、やっぱり腑に落ちないのよ。変なやつらに襲われたことも、あなたがいきなり現れて助けてくれたことも。こんな田舎の小娘相手に、どうしてなのかなって」
「いずれ、分かる」
「ふーん。いずれ、ね。いつになることやら」
話をしていた二人に近づいてくる人物が一人。歳は五十手前くらい。体つきだけ見れば二十代に見えなくもないが、日焼けしたその顔には、幾筋もの深いシワが刻まれ、髪の毛は真綿のように白い。
「あなたがユーヒさんですね。私が案内役を務めますゲンソウという者です。これから総帥のお部屋までご案内いたします。リン、ご苦労だった。お前にも関わる話だから、ユーヒさんと一緒についてきなさい。話は通してある」
ユーヒとリンは立ち上がり、ゲンソウと名乗った男の後ろに付いて広い廊下を進んでいく。かなり大きな建物で、廊下から見上げる吹き抜けのビルの各階には、多くの社員らしき人々がすれ違う。そのほとんどが白衣のようなものを着ていた。研究者だろうか。
「そうか、リン。あなたはこの会社の人だったのね。ゲンソウさんと同じ制服だし。ちなみにゲンソウさんとはどういう関係?」
「あの人は、自分の上司」
「そう。どんな人?ずいぶん強面だけど」
「ゲンソウは、自分を育てた人」
リンはその男の背中を見ながら、感情のこもっていない声で言った。
「親、っていう意味じゃあないよね。何となくわかるよ。私も同じような境遇だから。まあ、育ててくれた人を親って呼ぶべきなのかもしれないけど」
しばらくすると、廊下の奥、前方に大きな扉が見えてきた。前を歩いてたゲンソウがその大きな扉の前で立ち止まる。
「この先に総帥がいらっしゃいます。くれぐれも失礼のないようにお願いいたします」
ゲンソウはそう言うと、大きな扉の脇に備え付けてある認証システムらしき機械を覗き込むようにして右目を当てる。数秒の後、大きな扉がスウっと開いた。扉の先は、真っ白な広い空間だった。太陽光のような自然な明るさだったが、部屋の中は光に満たされていて、まるで実験室のようにも見えた。ユーヒは部屋の中をグルっとを見渡してみたが、光源がどこか分からなかった。よく見ると、天井、壁、そして床からも光が発せられているようだ。部屋に踏み入れた三人の影は薄く、ユーヒは自分が浮いているかのような錯覚に陥った。
視線の先に白い大きなデスクが見えた。ユーヒはそこに一人の人物の姿を認める。ゲンソウは真っすぐにその人物の方へ向かっている。ユーヒは、歩きながら少しずつ近づいてくるその人物を凝視した。褐色の肌に、腰まで伸びた黒髪、それに真っ白な旧時代のワンピースのような服をまとっている。室内の光で、その褐色の肌がより際立って見える。そこから覗く目が、ユーヒを見つめる。その視線は、ユーヒの目のさらに奥、ユーヒの頭の中、思考そのものを直接見ているように感じられた。
「総帥、お客様をお連れしました。テティスから来たユーヒさんです」
「はじめまして。土星区・テティスから来た、ユーヒです」
「はじめまして、ユーヒ。私の名はミジュ・マイルス。マイルス商会の総帥であり、また、あなたの居た施設を管理・運営している『カミラ財団』の創設者です。遠いところ、よくぞここまで来てくれました」
ミジュはデスクから立ち上がり、ユーヒの前に歩み寄る。
「ミジュ…様」
ミジュはユーヒの目の前に立つ。これが月の女王。目の前に立つミジュの体は想像していたよりも小さく、背格好こそユーヒと同じような少女のように見えたが、その表情には独特な風格が漂い、体からは近寄りがたいオーラのようなものが発せられていた。
「緊張することはないですよ。ここに来てもらったのも、あなたに直接こちらの頼みを伝えたかったからです。立ち話もなんですから、あちらで話をしましょう」
そう言ってミジュはデスクの方向を振り返ると、その視線の先には大きなソファーがローテーブルを囲むように配置してある。ユーヒはミジュの事ばかり見ていて、それらが置いてあることに全く気が付いていなかった。ミジュに促され、ユーヒは大きくて柔らかなソファに座る。ゲンソウとリンはユーヒのソファーから少し離れた場所に立ったままだ。
「ゲンソウ、リン。あなたたちもこちらに座ってみてはどうです?」
ミジュの言葉を聞いたゲンソウは首を大きく横に振る。
「総帥、我々はそんな立場の者ではありません。ここで結構です」
「そうですか。では、好きにしなさい」
ミジュがソファーに座り、右手を挙げると、女性の従者がお茶を持ってくる。
「ユーヒ、紅茶は好きですか?」
「はい。テティスの施設でも、3時の休憩には必ずお茶を飲みました」
「そうですか。それは良いことです。いかなる時代、場所においても、お茶を嗜む心は、人の気持ちに余裕をもたせるものですからね」
ユーヒは目の前に差し出された紅茶を一口飲んだ。それはテティスで飲んでいた紅茶とは比べ物にならないほど香り豊かなものだった。その香りに、自分が今どこにいるのかを忘れそうになるほどだ。しかし、ユーヒはすぐに自分を取り戻す。
「ミジュ様。早速ですが、その、依頼の内容をお聞きしたいのです。こんな田舎者の私に、どういった御用でしょうか?」
ミジュはその言葉を聞いて、手にしていたティーカップをテーブルに置き、腕組みをした。
「依頼内容自体は難しいものではないのです。そしてまた急ぐものでもない。こうしてお茶を飲むことも、用件の一つ、と言ったら、拍子抜けしますか?」
ミジュはそう言うと、少女のような無邪気な笑みを浮かべる。
「すいません。私、頭が良くないので、ミジュ様の言わんとしていることが分かりません」
「ごめんなさいね。勿体ぶっている訳ではないのです。ただ、私はあなたのような若者と会話をする機会がほとんどないから、ちょっと雑談めいたお話をしたかっただけ。あなたに頼みたいことは、ある場所に行ってもらうことです」
「ある場所……いったいどこです?」
ミジュは再びカップを持ち、紅茶を一口飲んでから答える。
「地球です」
「地球。月の近くにある青い星。ここに来るとき、船から見ました。そこに何があるのでしょうか?」
「そう、あの青い星。でも、大事なのは『そこにある何か』ではない」
それでは何が大事なのか?そんなユーヒの疑問を見透かしたようにミジュが話を続ける。
「重要なのは、あなたがそこで何を見て、何を感じるかです。私は、それを知りたい。それだけです」
やるべきことは分かった。しかし、その目的は?私が地球で感じたことが、ミジュにとって何の役に立つのだろうか?ユーヒはそれをミジュに聞きたいと思ったが、ミジュの表情が「これ以上の質問は受け付けない」と言っている。そう感じたユーヒはそのことを口にしなかった。
「詳しい話は、ゲンソウの部下から聞いてください。ゲンソウの部下は優秀な者が揃っています。地球へ行く方法や、そのための準備について教えてくれるでしょう。ではゲンソウ、よろしいですか?」
ミジュの言葉に、ゲンソウが深く頭を下げる。
「ミジュ様、ちょっとだけ、私からもお話をしてよろしいでしょうか?」
ミジュの話が一区切りついたと判断したユーヒは、ミジュとの会話が切り上げられる前に自分の話すべきことを話そうと思った。
「なんでしょう?」
ユーヒはフゥと一息ついてから話を始める。
「今回のお話を受けるにあたって、一つ、お願いを聞いて欲しいんです」
「言ってみてください。私も、あなたに何の見返りもなしに地球に行ってもらおうとは思っていません」
「お願いは、私の居たテティスの施設の存続です。施設の代表から、テティスの施設のほか、財団が管理する多くの施設が統廃合されると聞いております。私は、テティスの施設をとても大切に思っています。施設の代表であるウィル夫妻、そこで働いている人たち、そして、そこで生活している子どもたち。みんなに、今の生活を続けて欲しいと思っています。バラバラになりたくないんです。あそこは、私が育った場所。私の故郷なんです」
ミジュの目をしっかりと見つめながら話すユーヒの言葉を、ミジュはじっと聞いていた。ユーヒが話終わり、しばらくの沈黙の後、ミジュが口を開く。
「分かりました。それがあなたの願いであれば、テティスの施設は存続させるよう指示します。しかし、それはあなたが地球に行って、その報告を私にした後のことになります。それで良いでしょうか?」
「成功報酬ってことですね。結構です。私にそれ以外の選択肢はないのでしょうから」
ユーヒの言葉を聞いて、ミジュは満足げな笑みを浮かべる。
「ユーヒ、あなたはとても聡明な子です。私が選んだだけありますね。期待しています。良い旅になることを願っていますよ」
その言葉を最後に、ミジュは席を立ち、デスクに戻る。ユーヒ達は、深く礼ををして光に満たされた空間を後にした。
ミジュとの謁見を終えたユーヒたちは、ゲンソウの案内で別の部屋に移動した。先ほどの部屋とは違い、ごく普通の会議室だ。
「ユーヒさん。ここからは私の部下から説明をさせていただきます。ジル、こちらへ来なさい。では、私はここで失礼します」
そう言ってゲンソウは部屋を出ていった。ゲンソウが呼んだのは、ゲンソウやリンと同じ制服を着た女性だった。
「はじめましてー!わたしはジルと言います。ゲンソウの部下で、リンの同僚です。ユーヒさん、よろしくね!」
ジルが声を発すると、その場の雰囲気が一変した。さっきのミジュとの会話で緊張に満ちていたユーヒの心は、ジルの声でパッと晴れ渡った。
「はじめまして、ユーヒです。よろしくお願いします!」
ジルに触発され、ユーヒも元気に挨拶をする。
「いやあ、話には聞いていたけど、本当に肌白いよね。そして、その亜麻色の艶々な髪!私もそんな髪だったら良かったのになー。それに対して、リン。あんた相変わらずボサッとしてんのね。せっかく可愛らしいお客様が来ているんだから、もうちょっと笑顔を見せるとかさしなさいよ!」
ジルからそう言われても、リンは表情一つ変えなかった。本当に、機械みたいだな、とユーヒは思った。
「ユーヒさん、ごめんね、リンのやつ不愛想で。そういう性格に育ってしまったから、仕方ないと言えばそれまでなんだけど」
「あの、『さん』付けじゃなくて、呼び捨てでいいです」
「そう?それじゃあ、呼び捨てもなんだから、ユーヒちゃんって呼ばせてもらうわね」
「ジルさんはリンと長い付き合いなんですか?」
「そうね。リンのことは小さいときから良く知っているよ。リンと私は姉弟みたいなもの。ああ、でも、本当の姉弟ではないよ。似てないでしょ?」
確かに、ジルの髪は明るい栗色、リンの黒髪とは違う。長身のリンに対してジルは小柄だ。性別の違いや、ジルがメガネをかけていることを差し引いても、外観で似ている部分は見つけられなかった。身体的特徴は明らかに違ってはいたが、ユーヒは、ジルとリンからどことなく似た匂いを感じ取っていた。
「早速だけど、これからユーヒちゃんにやってもらいたいことは、地球に行くための身体検査。せっかく月に来てもらったのに申し訳ないけど、月から少し離れた人工惑星に移動して、そこにある専門的な施設で検査をさせてもらうよ。もちろん、そこまでの移動手段はこちらで手配するから」
月に着いたばかりですぐに移動か。しかし、これはもう定められたことなんだと、ユーヒは自分に言い聞かせた。自分が想像していたよりも、物事が速いスピードで進んでいる。そして、ミジュに自分の願いを伝えた以上、もう後戻りはできない。テティスから旅を続けている中で、ユーヒが先のことに対してここまで大きな不安を抱いたのは初めてのことだった。何か、心の支えが必要だと思った。
「ジルさん、一つ、お願いというか、提案があるんですけど良いですか?」
「うん、もちろん。私にできることであれば」
しばらく考え込んだユーヒは、ある提案をジルに伝えた。
☆
エマはユーヒたちと別れた後、バルでずいぶんな量の酒を飲んだ。しかし、その特殊な体質のせいで全く酔えなかった。モヤモヤした気持ちになったときほど、酒で酔えない自分の体質を恨めしく思うことはない。月のトラック組合の事務所に着くと、無言で事務室の扉を開けて事務室のソファーにドカッと座りこんだ。
「なんだよエマ。挨拶もなしか?」
事務所の管理責任者であるアルコットがエマに向かって問いかけたが、エマは目を閉じ、腕組みをしたまま応える様子はない。
「機嫌が悪いな。また余計なことでも思い出したんだろう。お前が機嫌が悪いのは、大抵昔のことを考えている時だからな」
「黙れ、アル。あたしは今、お前の冗談に付き合える気分じゃねえ。長い付き合いだからって、あたしの心の中に土足で踏み込むようなまねは許さねえぞ!」
あまりの剣幕に、アルコットは申し訳なさそうに言う。
「すまない、エマ。別にからかってる訳じゃないんだ。元気がなさそうだから、心配してんだよ。何があった。おれで良ければ話してみろ」
落ち着いた声で語りかけるアルコットの言葉に、エマはハッと我に返る。
「いや、謝るのはあたしだ。人の事務所に来て、不機嫌丸出しにしているあたしが悪い。すまん」
「お前だって謝る必要はない。とにかく、コーヒーでも飲もうじゃないか」
そう言うと、アルコットは給湯室に入り、ポットのお湯でドリップしたコーヒーをエマに差し出す。コーヒーを飲みながら、エマは火星で乗り合わせた少女について、アルコットに話した。
「乗せる気はなかったんだ。少しでも関われば、自分の心に変化が生まれてしまう。注意していたつもりだった。でも結果はこれだ。自分でも嫌になる」
「エマ。お前は面倒見がいい。もちろん、それは良いところでもあるが、お前の場合、面倒見が良すぎるところがある」
「そうだな。悪い癖だ。だから、人と必要以上に親しくなることを避けてきた」
「分かってる。でもな、エマ。お前はまだ若い。そろそろ心許せる相手を見つけることも、これからの人生には必要だと思うぞ。おれみたいなどうしようもない独り者の年寄りになる前にな」
そう言ってアルコットはフッと口元を緩める。それにつられて、エマの気持ちもほんの少し和らぐ。コーヒーを何度か口にした後、アルコットが思い出したように口を開く。
「そうだ、エマ。お前をご指名で仕事が入ったんだった。呼び出す手間が省けたよ。ああ、そろそろ依頼人が事務所に来る頃だな」
カップに残るコーヒーを一気に飲み干したアルコットは、いそいそと自分のデスクに戻り、依頼内容について確認する。しばらくすると、事務室に連絡が入り、アルコットが対応する。
「はい、トラック組合です。ああ、お待ちしておりました。事務室へお入りください」
自分を指名?月にはそこまで贔屓にしくれる客はいないはずだ。そんなことを考えているうちに事務室の扉が開く。制服を身にまとった小柄な女性が入ってくる。その後ろから、色白の少女と背の高い黒髪の青年がついてくる。
「あ、エマ!もう来てたんだ。また会えて嬉しいよ!」
ユーヒの能天気な声が事務室内に響く。ユーヒの後ろには相変わらず無表情で無言のリン。二人の顔を見たエマは妙な安堵感を覚える。
「依頼人って、まさか……」
「そ、私たちだよ」
ユーヒが満面の笑顔で答える。
「ユーヒちゃんが、移動するなら、是非あなたの船で行きたいっていうものですから。あ、申し遅れました。私はマイルス商会所属の医師で、ジルと言います。よろしくお願いします!」
エマは話の展開について行けない。大企業の医者が、ユーヒとリンと一緒に自分の船に乗る?
「ちょっと待ってくれ。いろいろ聞きたいことはあるが、まず、あたしは物を運ぶことが専門で、人を運ぶ仕事はしてない。そんな仕事、組合で受けるはずがない」
その質問に、デスクにいたアルコットが答える。
「エマ、仕事はマイルス商会の製品を運ぶことだ。それにその三人が同乗するという条件でな。人を運ぶ仕事じゃない」
「やっぱりエマも、私が一緒の方が話し相手がいて良いと思ってさ。エマにいろいろ相談したいこともあるし。だからお願い、もう少し私に付き合って!」
ユーヒの真っすぐな言葉がエマの心を揺らす。もう面倒なことには巻き込まれたくない。その思いは間違いなくエマの本心だった。一方で、ユーヒに会えて嬉しく思ったこともまた事実だった。
「そうか。仕事だっていうなら、断る理由はない。了解した。ただ、同乗者が増えた分、たっぷりと報酬はいただくからな!」
「報酬については心配しないでください。総帥から、必要経費は惜しまぬよう言われております。それでは、荷物の手配もあるので、出発は明後日ということでよろしいですね?」
ジルの言葉に異を唱える者はいない。エマは再びお喋りな少女と寡黙な青年を船に乗せることになった。そこにマイルズ商会の医師が一人加わる。一人増えた分、火星から月に来るまでに減らしてしまった燃料と食料を出発前に調達しなくちゃならない。エマは心は次の目的地に向かって進み始めていた。その心の中、ついさっきまで抱えていたモヤモヤは綺麗さっぱり消えていたが、エマがそのことを自覚したのは、月を出発してしばらく経ってからのことだった。
つづく