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連載小説『エフェメラル』#4

第4話 宴のあと(後編)


 船の外はとても静かだった。施設を襲撃した一団は、施設に常駐しているマイルスの軍に鎮圧されたのだろう。負傷したユーヒと少年は今、薄い青緑色の液体に満たされたカプセル型の箱の中にいた。硬化ガラスがはめられた箱の一部から、二人の首から上だけが見えている。二人が入った箱は、エマがマイルス商会から運搬を依頼されていた医療用の機械だった。
 
「二人とも外傷は少ないけど、内部のダメージが相当大きい。特に男の子のほう。ユーヒちゃんもきちんとした施設での治療が必要ね。とりあえず、これに入っていればこれ以上悪くなることはないけれど」
 
 二人の処置をしたジルは、目を閉じたままのユーヒを見つめながら説明する。
 
「こうなることを予想していたかのような準備の良さだな」
 
 エマは冷静なジルの態度に苛立っていた。
 
「エマ、これは偶然。この医療機器だって、火星の施設に納品するはずだった物よ。敵襲が予想できたなら、ユーヒちゃんをこんな目に遭わせる前に敵を排除した」
 
 ジルの言葉に嘘はないようだった。エマも少しだけ冷静さを取り戻す。
 
「じゃあ何なんだよ。なぜユーヒは襲われたんだ?前にも一度襲われている。その時ははリンに助けられたが、それだってユーヒが襲われる可能性があったからリンを護衛として見張らせていた。違うか?」
 
 ジルは沈黙する。
 
「そしてなぜ、そのガキを助ける?ユーヒを襲った張本人だぞ」
 
「私だって憤りはある。でも、この子の身体は情報源。本人の口から聞かなくても、身体を通じて記憶のデータを手に入れることができる。でも、死なせてしまっては何も手に入らない。それに……」
 
 ジルは一度言葉を切ったが、また話を続ける。
 
「私が戦場で負傷した兵士を治療したり、あなたが預かった荷物を誰かに届けることに理由があるように、この子がテロ行為に加担したのには何か理由がある。それを知ることが、私にとっては価値のあることだと思っているんだ」
 
 ジルはそう言うとエマからスッと目を逸らし、運転席に向かって歩き出した。そして本部と連絡を取るために長距離通信用の機器を手に取る。
 エマは医療用の機械に入れられたユーヒと、その隣の機械に入っている少年を交互に見比べた。二人とも、おそらく同じくらいの歳だろう。エマ自身も、かつては兵士として仕事をしていた。一定のルールがある戦闘に参加していたとはいえ、人を殺める仕事であることに変わりはない。自分とこの少年を区切る境界は、限りなく曖昧なものだ。
 連絡を終えたジルがエマの元に戻ってくる。 
 
「月の本部と連絡を取ってみた。ここから一番近くて、本格的な治療を受けられる施設に行くように言われたよ。火星区のフォボス。ここからどれぐらい時間がかかりそう?」
 
「フォボスか。まともに進めば約1カ月だな。ただ、金はかかるが、高速を使えば2週間で着くだろう」
 
「お金で解決するなら、使わない手はないね。会社で持つから、使って」
 
「分かった」
 
 運転席に座ったエマは、行き先を火星の衛星『フォボス』に設定し、空間移動が可能な高速のゲートに向かった。まずは、ユーヒの命を助けることが第一だ。そこから先のことは、その後に考えれば良い。
 
「そういえばリンはどうした?」
 
 船に乗っているはずのリンの姿をしばらく見ていない。
 
「ああ、リンはたぶん、宇宙そらの見える場所でお祈りしてると思うよ」
 
 あのリンがお祈り?デカい身体を小さくたたんで、胸の前に両手を合わせる……エマはそんなリンの姿を想像できなかった。
 
「リンは守る対象がいないと不安になるの。守ると決めたら、その対象がリンの全てになる。そういう風に育てられてきたから。それに、言葉が少ないだけで根は優しい奴だよ。エマだってそう思うでしょ?」
 
 リンが優しいかどうかなんて知らない。ただ、誰かの事を想って祈れる人間は、誰かの優しさに触れたことがある者だけだ。それはエマにも理解できた。



 ユーヒ達の状況は、すぐに月のマイルス商会本部に伝わった。ミジュは親衛隊の隊長である側近のゲンソウを呼び出す。
 
「ゲンソウ、どうしたというのです?お前ともあろうものが、寝首を搔かれるような事態になるとは」
 
 ミジュの言葉は厳しかったが、ゲンソウを責めるような口調ではなかった。ただ純粋に、この状況の原因を知りたいという好奇心が表情から読み取れる。ゲンソウにとってもこの状況は不可解だった。ユーヒが月に来ていたこと、そしてそこから検査のための医療施設に移動していたことを知っているのは、組織の中でもごく限られた者だけだ。
 
「ミジュ様。あまり考えたくはないですが、敵は身内にあると思われます」
 
「考えたくなくても、それ以外の可能性を考えるほうが不自然でしょう。この時代になっても、システムの綻びのほとんどがヒューマンエラーから生じます。だからこそ、お前のような者が必要なのです。ゲンソウ、早急に原因を探って対策を講じなさい。そして、ユーヒを必ず、地球に降ろすのです」
 
 ゲンソウは短く返事をしてミジュの部屋から出る。自分の執務室に戻ったゲンソウは、親衛隊ナンバー2として指揮権限の一部を任せているレニー中将を部屋に召集した。
 
「ゲンソウ様、ご用件は」
 
 ゲンソウはレニーにデスクの前の椅子に座るよう促す。レニーは軽く頭を下げてからその椅子に座った。鍛え上げられた肉体を持つ巨漢のレニーの顔は、椅子に座った状態でも立ち上がったゲンソウが見上げる位置にあった。
 
「レニー中将。今、ミジュ様が自ら指揮しているプロジェクトが進行していることは知っているな?」
 
 レニーは頷く。
 
「その情報がどこからか外部に漏れているようだ。中将には、その『穴』を見つけて対処して欲しい」
 
 レニーはゲンソウの意図をすぐに理解する。
 
「早急に情報を集めます。まずはその『穴』を埋めることになろうかと思いますが、その穴をあけた『虫』についてはどうなさいますか?」
 
 答えは分かっていたが、レニーは敢えてゲンソウに問う。野暮なやり取りではなく、これは儀式だ。これからの行動に正統性を与えられるために行う儀式。儀式の締めくくりとしてゲンソウが言う。
 
「確実に駆除しろ」
 
 レニーはその言葉に反応して立ち上がり、敬礼で応えた。そしてその巨漢からは想像がつかない滑らかで機敏な動きでゲンソウの部屋を後にした。



 エマの船は、予定より2日ほど早く目的地である火星区のフォボスに着いた。フォボスにはマイルス商会専用の入港ゲートがあり、エマの船は待ち時間なしで入港する。港にはユーヒたちを運ぶために医療施設の搬送車が待機していた。
 
「じゃあエマ、私が二人の付き添いで施設に行くから。あなたとリンはしばらく街で過ごしてて。護衛は十分だから、施設に行ってもあなたたちは何もすることがないの。ユーヒちゃんが回復したら連絡する」
 
 そう言ってジルは搬送車に乗って施設へ向かった。残されたエマとリンは、仕方なく二人でフォボスの街に行くことにした。ジルが言うには、ユーヒの回復には1週間以上かかるとのことだった。
 
「おい、リン。あたしはここに知り合いがいるから会いに行く。お前も自由にしていいぞ。ジルから連絡があったら施設に集合ってことで。じゃあな」
 
 エマはリンに背中を向けて街へ歩き出す。フォボスの知人に連絡して食事に誘おうか、それとも、映画でも見るか。そんなことを考えながら久しぶりに来たフォボスの街並みを眺める。フォボスをはじめとした火星の衛星は、月に進出した人類が人工惑星モックの建設前から開発を進めてきた場所で、月の都市の次ぐ歴史を持つ街が多い。火星出身のエマにとっても馴染みのある街だ。お気に入りのジャズバーもある。そこに行けば、おそらく、旧い知人も見つけられるだろう。街の中心部に向かうため、モノレールの駅で改札を通過しようとした時、自分の後ろの大きな影に気が付く。
 
「お前はストーカーか、リン。自由にしろって言ったよな?」
 
 考え事をして気が付かなかったのか、どうやらリンはずっとエマの後をついてきていたようだ。
 
「自由の意味が分からない」
 
 そう言ったリンの言葉の意味が、エマには分からない。
 
「自由って、お前の好きにしろってことだよ。もっと分かりやすく言うなら、あたしは一人になりたいから、お前はどこかに行ってろってこと。アンダースタン?」
 
 言ってはみたものの、リンがその意味を理解しているようには見えない。というより、リンの表情からは何の感情も読み取れない。それを察したかのようにリンが口を開く。
 
「ユーヒはエマを大事に思っている。だから自分もエマを大事にする。エマを守るために、一緒に行動する」
 
 リンなりの三段論法。エマはこれ以上の会話は無意味だと悟った。
 
「ユーヒはお前にとってお姫様か何かなのかもしれねえけど、その理屈であたしも守るってのは正直、迷惑だ。お前に守られるまでもない。自分のことは自分で守る」
 
 エマの言葉はリンの心に全く刺さらなかったようで、結局、一緒にモノレールに乗ることになった。まあ、ついてきたところで、人畜無害のリンがいても別に迷惑ではない。エマはそう思うことにした。
 乗った駅から6つ目の駅が、フォボスの中心市街地だ。駅から出たエマは、慣れた足どりで入り組んだ路地を進む。レンガ造りの小径に、古めかしい2階建ての建物が並ぶ通りの一画、地下に通じる階段を下りていくエマとリン。ピアノをモチーフにした、鉄製の看板が掲げられた店のドアを勢いよく開けたエマは、店内に知った顔がないか見渡した。店の一番奥に、あまり会いたくない顔を見つけたエマは、即刻、店を出ようとしたが、相手が気づいて声をかけてきた。
 
「おお、エマ!久しぶり!こっちに座りなよ」
 
 エマは露骨に嫌な顔をして見せたが、相手は全く気にしていない。仕方なくエマはその席に向かう。リンもそれについていく。
 
「なんだよセリーナ。お前まだこの店に出入りしてたのか?たしか、木星区に嫁いだんじゃなかったのか?」
 
「いつの話してんの?もうだいぶ前に別れたわよ。あんたこそどうしたの。この街に来るなんて何年ぶり? まあいいわ。ビールでいいよね。隣のお兄さんも何か頼みなよ。あ、もしかしてエマの彼氏?」
 
「アホか。こんなデク野郎が彼氏な訳ないわ」
 
「でも、なかなかいい男じゃないの。お兄さん、お名前は?私はセリーナ、よろしく」
 
 リンは自分の名前を短く2文字で答える。そこからしばしの沈黙。
 
「あらあら、私、嫌われちゃった?まだほとんど何も話してないんだけど」
 
 セリーナはテーブルに乗り出してリンの顔をまじまじと見つめているが、リンはセリーナの顔を見ようともしない。
 
「こいつ、ほとんど話さないんだよ。そして、たぶんお前のことは直観で嫌いになったと思うぞ」
 
「失礼ね。私がいい女過ぎて直視できないんでしょうよ」
 
 確かに、セリーナは、傍から見るだけならばいい女に見えるかもしれない。実際、昔つるんでいた頃は、男に声をかけられるのは8割方セリーナだった。女性にしては体が大きく眼光鋭いエマに比べて、セリーナは細身で、人を安心させるような柔らかい雰囲気を持ち合わせていた。いつもきちんとした身なりで、小さな顔に似合った短めのボブカットに、人目を引く優雅な仕草など、自分の魅力を表現する技術に長けている。そのガサツな性格さえなければ、正真正銘のいい女だったのに残念だな。エマは喉元まできたその言葉を、運ばれてきたビールと一緒に喉に流し込む。
 
「相変わらずいい飲みっぷりね。リンくんは何か飲まないの?」
 
「ああ、こいつのことは放っておけ。酒も飲めねえ辛気臭せえ奴だ」
 
「いや、でもさ、そういうストイックな男、私は好きだけどな」
 
 セリーナはそう言ってリンの表情を窺うが、やはりリンはセリーナと目を合わさない。
 
「セリーナ。リンはお前に喰われると思ってるぞ。ギラギラしすぎなんだよ」
 
「何よそれ。別にいいじゃない。本当に取って喰おうって訳じゃないんだから。あら、もしかしてエマ、リンくん取られるのが嫌なの?」
 
「セリーナ。ふざけんのもいい加減にしろよ。張り倒すぞ」
 
「はいはい、スイマセンね。血の気が多いのは変わらないのね」
 
 エマとセリーナは、それからしばらく話もせずにお互い黙々と酒を飲み続けた。リンは二人の様子が全く見えないかのようにじっと店内を眺め続けている。エマが来てから八杯目のワインを飲み干したセリーナが思い出したように口を開く。
 
「あ、エマ。そういえば、あの子には会いに行ったの?」
 
 やっぱりその話になるのか。エマはセリーナの言葉を聞いた瞬間に天を仰いだ。だからこいつに会うのは嫌だった。エマがそう思ったところで後の祭りだ。幸い、この場に居るのは人に興味を示さないリンだったから良かった。
 
「会いになんか行けるか。あっちはあたしのことなんて覚えちゃいないんだからな」
 
「そんなことないでしょ。実の母親に会えて嬉しくない子なんていないと思うけど」
 
「お前は浅はかなんだよ、考えが。それに、会いに行かないのはあの子の問題じゃない。あたし自身の問題なんだ」
 
 それを聞いたセリーナは、追加したワイングラスを一気に飲み干してエマに絡む。
 
「エマ。あんた、せっかく身体が元に戻ったっていうのに、心は全然元に戻ってないみたいね。考え過ぎなのよ。まあ、もうその話はいいや。今日は私たちの再会を祝して飲もう!あ、店員さん、ワインおかわり!」
 
 自分から話を振っておいて「もういい」って、最低な女だな。そして、戻ってないのは『心』じゃない。エマはそう反論したかったが、酔っ払い相手に言うことじゃないと思いなおした。
 それから一時間以上飲み続けたセリーナはすっかり酔いつぶれた。こんな酔っ払いでも、セリーナはエマにとって、エマの歴史を知っている数少ない友人だ。腐れ縁と諦めているから、嫌いにだってなれない。昔からそうしているように、エマはセリーナを家まで送ってやることにした。
 
「リン、悪いけど、こいつを背負ってやってくれ。あたしは重いのは嫌だ」
 
 リンはエマに言われるがまま、セリーナを軽々と背負って店を出る。セリーナの住むマンションは、確か、このすぐ近くだ。すでに外は暗くなっている。人間の生活サイクルに合わせた人工的な夜。しかし、暗くなると人は暖かな光のある自分の巣に帰りたくなる。それは今も昔も変わらない、生き物としての本能だ。街灯に照らされた路地を、セリーナのマンションに向かってエマが先導して歩く。リンとの間にある長い沈黙には慣れているエマだったが、セリーナとの会話で思い出してしまった昔の記憶が、エマの口を開かせた。
 
「リン、お前、施設出身だったよな?」
 
 セリーナをおんぶしたリンは小さく頷く。
 
「自分の親に会ってみたいって思ったことあるか?」
 
 リンはしばらく考え込むように地面に視線を落とし、その後、エマの目を見て答える。
 
「本当の親がいるかどうかを知らなかった。親というものが、どういう存在なのかもわからなかった。だから、会いたいとは思ったことはなかった」
 
 リンとしては珍しく長いセンテンスだが、余計な装飾の無い、端的で、明確な回答だ。やっぱり話し相手としてはふさわしくなかったか。エマはこれ以上話すのを止めようと思った。
 
「ただ……」
 
 リンが自分から話を続けようとしている。エマがリンに出会ってから、初めてのことだ。
 
「親と言うものが、自分の成長をずっと見守っている存在だと定義するなら、自分にも親はいることになる。今は会おうとすれば会える場所にいるから、会えなくなるという状況を想定できない」
 
「そうか。会おうとすれば会えるってのは良いな。その人のこと、大事にするんだな」
 
 リンはまた、小さく頷く。
 
「何よ、君たち。私を差し置いて良い話してるじゃないの」
 
 リンの背中から、セリーナの声が聞こえた。
 
「何だよセリーナ。いつから起きてた?」
 
「いつからって、外に出てからずっと起きてたよ。リンくんにおんぶされて、テンション上がっちゃったし」
 
 エマは呆れて笑うしかなかった。リンとの会話を盗み聞きさされたようであまり良い気分ではなかったが、セリーナも一緒に話を聞いてくれたことで、少し気持ちが楽になったような気もした。
 あの子に会いに行けないのは、取り戻せなかった『感情』のせいだ。それをここでリンとセリーナに打ち明ければ良かったのかもしれない。でもまだ、それを話すにはもう少し時間が必要だと思った。
 
「じゃあ、今から私んちで飲みなおそう。フォボスの夜は長いから。何だったら、エマは先に寝てても良いよ。私とリンくんで、楽しい時間を過ごすから」
 
「変なこと言い出すなよ。第一、リンのお姫様はお前じゃないんだよ」
 
「え、ウソ。リンくん、彼女いるの?あらあ。ちょっと、そんな面白そうな話なら、朝まで語ろうよー」
 
 もちろん、セリーナが期待するような話をリンが語るわけがない。そのお姫様は今、夢の世界を放浪中なのだ。無口な王子さまは、今宵もきっとその大きな体を折りたたみ、星空に向かってお姫様の無事を祈り続けるだろう。そう考えているエマ自身も、鬱陶しいとしか思っていなかったお姫様のお喋りを少しでも早く聞きたい。そう思うようになっていた。



 ユーヒと少年が運ばれた施設は、マイルス商会が所有する火星区内の医療施設の中でも、最も規模が大きい場所だ。一般医療を行う病院には、全宇宙から数万人の患者が治療に訪れる。各地の紛争で負傷した兵士や宇宙特有の難病を患った老若男女が、その命をつなぎとめるためにやってくる。そして、一般医療を行う施設の他に、その倍以上の規模の研究施設がある。その施設の中心は、マイルス商会が全宇宙で最も進んだ技術を持つ、再生医療の研究施設だった。
 
 「あの頃とあまり変わってないな」
 
 施設内にある広い緑地帯を歩きながら、ジルは一人呟く。ジルはこの医療施設で研修医としての数年間過ごしたあと、ゲンソウの部隊に軍医として配属された。ジルがいた頃よりも施設の規模は少しだけ大きくなっていたが、各施設の配置などは当時のままだ。
 ユーヒと少年は、戦闘で負傷した兵士を治療するための病棟で治療を受けている。その間、ジルは久々に訪れた施設内を散策していた。もちろん、時間つぶしに歩いているのではない。月の本部にいるレニー中将から、ユーヒを襲った集団についての情報を集めるよう指示があったのだ。レニーによれば、フォボスの施設にも敵に情報を流している者がいる可能性があるとのこと。しかし、この広い施設の中で、どうやって情報を集めるか。複雑に絡む糸。何かを明らかにすることは、その糸を丁寧に解していく作業だ。その糸の端をどこに見つけるべきか。どんなに情報ネットワークが発展しようとも、まずは人に当たる。それがゲンソウの教えだった。手始めにジルは研修医時代の恩師の元を訪ねることにした。
 
 
 
「おや、ジルくん。何年ぶりかな?ずいぶん昔のような気もするが、若いのにたいそう優秀だったから、君のことはハッキリ覚えているよ」
 
 再生医療の治療を行っている施設の一室、施設の最奥に近い場所にドクターエノウラの研究室はあった。
 
「エノウラ先生、ご無沙汰しておりました。6年ぶりです」
 
 エノウラは小柄な男で、すでに還暦を迎えていたが、見た目は二十代のジルとそう変わらない歳に見える。自分の身体で実証した、再生医療研究の成果だ。
 
「先生は相変わらず若々しいですね」
 
「そういう仕事だからね。ただ、言葉や仕草は歳相応。まあ、ここでは見た目なんて何の意味も持たないからどうでもいいんだけどね。でも今日はどうしたの?突然現れて」
 
「私の仲間がちょっとした争いに巻き込まれまして。その治療のためここに来ています」
 
「そうか。仲間って、兵士?」
 
「若い少年と少女です。たぶん、少年の方は雇われの傭兵でしょう。もう一人の少女は、ミジュ様がプロジェクトのために選んだ子です」
 
 ミジュの名前が出た瞬間、エノウラは目を細める。
 
「ミジュ様が選んだ少女か。それで君は護衛を?」
 
「まあ、そんなところです。それで、先生にお聞きしたいのは、最近、マイルス商会の動きを探っているような人物や組織をご存じないかということです」
 
「情報収集か。相変わらず仕事熱心だね。この宇宙でも大きな影響力を持つマイルス商会は、いつだって注目されている。そして、マイルスを快く思わない奴は星の数ほどいるだろうね。ときに君は、12年前に終結したマイルス商会絡みの軍事闘争のことは知ってる?」
 
「はい。まだ軍に入る前の話ですから、当然、参加はしていませんが。ただ、軍事闘争の内容は知っているつもりです。マイルス商会の技術を持ち出した研究者が、軍事用兵器開発会社にその情報を売り、その権利をめぐって法廷闘争から軍事闘争に発展した」
 
「そのとおり。その後、互いが保有する軍隊の衝突、勝ち馬に乗ろうとした周辺企業の参加により、宇宙企業の大多数が参加するという大規模な軍事衝突につながった。マイルスの技術を買った企業の名前は知ってるかい?」
 
「土星区を拠点にする『グルーム社』です」
 
 エノウラはジルの答えに満足するかのように微笑んで応える。
 
「では、そのグルーム社がマイルス商会から手に入れた技術とは何かな?」
 
 ジルは過去に何度かその技術について調べたことがあったが、結局、確かな情報は得られなかった。答えられずに黙っていると、それを見たエノウラはクククと堪えるような笑い声をあげる。
 
「知らなくて当然だよ。その技術がなんなのか、一切公表はされていないんだから。そもそも、マイルスから本当に技術が持ち出されたかどうかも判然としていない」
 
「つまり、軍事闘争の原因について、真相は分かっていないと……」
 
「まあ、そのとおりなんだけど、大事なのは原因じゃない。どうして争いを起こしたのか。争わなくてはならなかったという現実的理由のほうだ。ここまで言えば、優秀な君なら何かに気が付くと思うんだけどな」
 
 エノウラは何か知っている。そして、それを伝えようとしている。ジルはそう感じた。黙っているジルを見つめながらエノウラは話を続ける。
 
「軍事闘争も、終わってみれば、一部の人間にとっての『宴』に過ぎなかった。誰のための宴か。それを考えれば、君の連れが襲われた理由も分かってくるだろう。私が言えるのはこれくらいだ。すまんね」
 
「いえ、貴重な情報をありがとうございます。それでは、私は仲間の元に戻ります」
 
 ジルはエノウラに礼を言い、研究室を後にする。エノウラの話から考えるに、軍事闘争には大きな目的があった。それにより利益を得た者がいた。そして今回ミジュが主導しているプロジェクトによって、利益を得る者と失う者がいるということ。
 エノウラの研究室からユーヒ達の治療が行われている施設まで移動している間、ジルは様々な可能性について考えを巡らせたが、現時点では情報量が少なく、どのような仮説も憶測の域を出ない。ユーヒのいる施設まであと数百メートルというところで施設でユーヒの治療にあたっている担当医師から連絡が入った。
 
ーーユーヒ様が意識を取り戻しました。早急にお戻りください。
 
 連絡を受けたジルは組み上げていたいくつかの仮説について考える事を止め、ユーヒのいる部屋へ向けて駆け出した。
 
 


つづく


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