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6歳が親を軽々超えていった。

我が家には3人の子供がいる。今日は2人目の長女「きーちゃん(6歳)」と、3人目の次女「みーちゃん(3歳)」の話。

2人は天真爛漫な姉妹だ。私は常々子供たちに、「ありのままであっていい」という態度で接している。

そんな昨日の夜、みーちゃんはおもちゃの刀で姉のきーちゃんの顔を叩いた。きーちゃんは泣いていたが、みーちゃんに仕返しをしなかった。私はみーちゃんを、怒った。みーちゃんは、ずっと号泣していた。

みーちゃんの泣き声が聞こえなくなったのでベッドに行ってみると、きーちゃんが、みーちゃんに語りかけていた。

「わたしはね、ずっとみーちゃんのことを、想っているよ。
怒っているけど、嫌いになったんじゃないよ、
わたしね、みーちゃんのこと、大好きだから、大丈夫だよ。
パパは怒ったけど、叩いちゃだめなことを、教えてるだけだからね。
わたし、みーちゃんのこと、ずっと想ってるからね」

言い終わる頃には、みーちゃんは笑顔になり、きーちゃんと戯れるようになっていた。そのことを今日思い出して、私はずっとジワっていたのだ。

私はメンタルモデルでいうところの「愛なし」を強く持っている
相手を不快にさせることは、即「嫌われる」⇒「僕のことなんて誰も愛してくれなくなる」と、反応的に連鎖していく。それだけありのままで愛されたいのだ。

今はそれに対して自覚的にはなっているから、
みーちゃんが親に怒られて泣いたときには、
「怒っているだけで、みーちゃんが嫌いになったんじゃないよ
みーちゃんのこと、大好きなんだよ」

そう言っても、首を横に振るだけで、みーちゃんは納得しない。
親に怒られる、というのは、3歳の幼子にとっては、即「愛されなくなった
」という生存の危機になっているのだ。

ほとんどの人が愛を「取引」みたいに捉えており、それが「ありのままで愛されない」痛みに繋がっており、その痛みは世代をこえて脈々と子孫に受け継がれている。私も当然そうだ。

でもきーちゃんは、6歳にして、怒ることと、愛さないことの区別が明確ついていて、そのことを妹に堂々と説明することができた。

親が説明しても納得しなかったのに、きーちゃんが説明して笑顔になったのは、きっと、私の意識が「愛されない」ことへの抵抗から発していたのに対して、きーちゃんは、自分のことを、「ありのままで愛されている」って、心から思えていたからではないだろうか。

きーちゃんは、私の40年以上続いている、愛されない痛みを、軽々超えていったように思えた。だから、それが嬉しかった。

自分の痛みを終わらせてくれた、っていうのと同じくらい、嬉しかった。


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