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子供の頃の大人のイメージと、実際に大人になった自分。映画「違国日記」を観て思ったこと【ネタバレなし】

先週、いつものように仕事終わりに映画を観に行った。

「違国日記」。

あらすじはこちら。

2時間20分の上映時間にも関わらず、あっという間に終わった。「ずっと観ていたい」という気持ちでいっぱいになるほど、あたたかい映画。気持ちが穏やかになった。

子供の頃の「大人」のイメージ

主人公である中学生の「朝」は、家族や学校以外の「大人」と接することで、「大人」というものを初めて理解しようとしていたように思う。

私もそうだが、子どもの頃に感じていた「大人」は、まじめでしっかりしていて、なんでもできて、完璧な人間。

なんの迷いもなく、疑う余地もなくそう思っていた。

今、大人になって気がつく。そんなわけないと。

大人になるにつれて、「大人はなんて子どもなんだ」と感じることが多い。と、いうより子供の頃と変わっていないのだと感じる。

中学生の頃の「大人」のイメージは、親と先生。

中学生くらいまでは、自分の家と、学校、もっと言えば教室、クラスメイトが世の中の全てだった。

それ以外の世界があるとは考えられなかった。

大人は、みんな片付けはできるし、料理もできるし、朝も起きられるし、仕事もできる。

「大人=親・先生」。

だから「朝」が、「大人なのに片付けが苦手!?」と驚いていることに、ものすごく共感したし、そこに興味が湧くということにも共感した。

固定概念を壊してくれる経験

もう一人の主人公である「まきおちゃん(新垣結衣)」は、友達を家に呼ぶ。その様子を「朝」が、興味深そうに見ていた。

おそらく「朝」の両親は友達を家に呼ぶこと無かったのだろうと思う。

私の家もそうだった。親に友達がいるという認識すら無かった。

でも「大人」である自分は友達と話す。あたりまえだ。

でも、その環境にいないと、それにも気付けないのだなと感じた。

自分の固定概念を壊してくれる出来事に出会えるというのは、幸せなことだと思う。

私も高校生の時に、親戚の家で一時期暮らしたことがあり、生活環境の違いに驚いた経験がある。

家が違うと生活環境が違う、というあたりまえのことに、子供であった私は気づくことがなかった。今でもそのときのことを思い出すほどに、当時の私にとっては衝撃的な出来事だった。

「まきおちゃん」が、「朝」と話すときと友達と話すときとで、話し方の雰囲気が違うのがとてもリアルに感じた。

「大人だからちゃんとしないといけない自分」と「いやいや子供の時と変わらないと思っている自分」。

この切り替えは自分だけではないのかという安心感と、それで本当にいいのかなという疑問も生まれた。

大人も子供も迷って悩んで成長していく

「まきおちゃん」は35歳。「朝」は15歳。

どちらの気持ちもよくわかる映画だった。

子供の頃の自分。大人になった自分。どちらとも見ているようだった。

人は迷う。

それは、大人とか子どもとか、区切るものではない。誰も皆同じ。人は迷う、悩む。

そうやって成長していく。

そんなことを考えさせられる映画だった。

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