理想的な土曜日
しんどさを抱えながら迎えた土曜日の朝。一週間の仕事と前日の同期飲み会で疲労はたまりにたまり、今日こそはゆっくりしたいなと思っていた矢先、友人の来訪が決まった(一週間ぶりの!)。先週のわだかまりは端っこにどけておいて、ココスでモーニングしたいねとなった。
先週と同じく朝7時集合。朝に予定を入れるのってとても良い。多少眠くても、鼻水が垂れていても、そんなことなど友と過ごす時間の邪魔にはならない。1日が長く感じるし、仮にあったとして、門限にだって余裕で間に合う。齢24にして初めて気づいた、早起きの良さ。思えば、睡眠に支配されていた二十数年はとてももったいなと、でも、それに気づけたことは本当に運が良い。
ココスのモーニングは、「THE、こういうのでいいんだよ」だった。今の世の中、過不足なくそろっているものは意外と少ない。そんな時代に、「ちょうどよい」を見つけられるだけで一日が豊かになる。そんなちょうどよさとは裏腹に、僕は過剰に飲み食いしてしまう。幸福になり切れないのはこういうところにあるのかもしれない。やはり大事なのは、バランスである。
お腹も会話も充実したところで、駅へ向かって次の安らぎの場を探しに向かって歩き出す。橋を渡り、商店街を突き抜け、金券ショップと本屋で爆買いしたところで(結局クオカード1万円分くらい、本は7000円分くらい買った!)、ビル屋上のカフェでランチをとった。なぜか一番当たりの席に座り、駅前特有の整備された道路と工事中のビルといった、なんともいえない景色を見降ろしつつコーヒーと他愛もない会話を味わった。
思えば、朝から長いこと会話していたが、話した内容は何も覚えていない。そう考えると、僕にとって会話の内容などただのスパイスでしかないのかもしれない。
であるのならば、会話に混ざれていないこと、気まずい沈黙の時間が流れることに、恐れを抱く必要はないのかもしれない。一人っ子を理由にできるかはわからないが、僕は集団内でよく自分の存在意義を考えてしまう。しかし、その恐れが問題になったことなど一度もない(少なくとも表に出てきたのを見たことは)。それよりむしろ、その場にいれたことの喜びと懐古しか思い出には残らない。
これらが教えてくれることは、その時間、空間の価値に比べたら、他の事象など何の問題にもならないということだ。その瞬間瞬間こそに価値がある。だから、僕が人生でできることは、ただその時間を噛み締めて過ごすこと、それだけであると思う。
そろそろ解散しようと思い駅まで見送ったが、次の電車まで時間が少しあったので駅周辺を見て回った。冬なので、日が沈むのも早い。薄暗さに見合った駅周辺の静けさ。肌寒い空気と交わって、独特な雰囲気を醸し出す。喫茶店で話すのも良いが、いろんなところを足で巡り、目で見て確かめる方が性に合っている気がする。この世界は僕にとっては刺激的すぎる。知らないこと、見たことのないもので溢れている。一つでも多く、眼に焼き付けるためには休んでなどいられない。眠ってなどいられない。
今日という日の哀愁に浸り、友に別れを告げる。時刻はまだ18時を回っていない。まだ時間はたっぷりある。その事実を満足げに噛みしめて、僕はペダルをこぎ始めた。
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