わかりやすくないというのも価値
SUGOIのクリエイションの中で、10年の間ずっと音楽を担ってくれている狩生健志さんのソロアルバムが今年、フランスのレーベルからアナログレコードで発売されている。
http://bruit-direct.org/prod/kenji-kariu-sekai/
商業案件で一緒に作っている曲は、いわゆる「わかりやすい音楽」であるのに対して、今回彼が作ったもの、それは誤解を恐れずにいうと、「わかりやすくない音楽」なのであった。
本当に作りたいという欲求から生まれた音楽だったのだろう。
本人と話をしたけれど、「自分の中では、すごくわかりやすいもの作った」と言っている。改めて、彼が「わかりにくさ」を狙っていたのではない、ということがよく分かった。
自分の中で自問自答し、本当に作りたいものは何か?と向きあった過程がそこにあったのだと思う。なんとも体験価値の高い創作をしているなと、改めて尊敬する。
そういった貴重な体験を経て、「わかりやすくないもの」が作れてしまうというのは、凄い素質なんじゃないかなとも思っている。だから狩生健志って良いんじゃないかなと。自分たちのチームにこういう人がいて、とても嬉しいことだし満足だなと思う。
クリエイションを生業にしているなら、「わかりやすいものを作れば良い」という、安易とも言える着地点に居心地の良さを求めてしまいがちだ。
実際の仕事現場では、よくダメ出しとして「もっとわかりやすくしてくれ」などというリクエストが飛び交うものだ。
つまり、良くしていくということは、わかりやすくしていくということ。
商業的なクリエイションでは、このやりとりが主に行われている、と言っても過言ではない。
誰が見ても伝わるものにしよう。この意図を尊重するあまり、もしかして一部の人からすれば、とてもつまらないものが生み出されている、と感じるかもしれない。
しかしこれは仕方がない。資本主義という仕組みの中で、誰が見てもわかりやすい、という意図は、今のところとても強い力を持っているのだ。
なので、ついつい理解されたい一心で、わかりやすいものに寄せてしまう。
そういったことは、表現者であれば誰しもが陥ってしまうことであろう。
いや、クリエイションだけでもなさそうだ。例えば人間性、キャラクターなどといったものもそうかもしれない。
変なやつだとは思われたくない、だからわかりやすい自分にキャラクターを合わせて、仲間内ではよろしくやってます、なんていう人もいるだろう。
自身の夢や生きる目的なんかも、そうかもしれない。
みんなが共感するわかりやすいものであると、一目置かれるかもしれない。協力してくれるかもしれない。
それが自身の内側から生まれた本質的なことならば良いだろう。しかし、もしそれが他者を意識した故のわかりやすいものなのだとしたら、これはちょっと恐ろしいことである。
何を隠そう、「愛とアイデアの溢れる世の中を作りたい」と公言している私自身、このビジョンが、人によってはわかりやすくないものだと思われている。ビジョンなのだから、もっと賛同しやすい分かりやすいものにしてよ、と。
人というのは、わからないものに対する免疫が、きっと無いのだろう。
だから、わからないものに対して、「知らない」「見ない」という態度をすることがある。
そんな態度が時には評価へと直結するから、恐ろしい。
つまり、わからないものに対しては評価が低い、ということが往々にしてある。
その理由は、評価できない、したくないからでもあるのだろうな、と思う。
実は、何故この「わかりやすい、わかりやすくない」をテーマにこんなに語りたいのかというと、先日SUGOIの自主イベント読書会「本で遊ぶじかん」にて取り上げた本が、『わかりやすさの罪』という本であったのだ。
https://note.com/preview/n799e8c150c12?prev_access_key=76ead43bed9d2887a0e6f49a276ed5a1
その本をちょうど読んだこともあったからなのだが、狩生さんの音楽を聴くに、しみじみとこのわかりにくさが、「わからんなぁ」と心地良く私の体や頭に染み入ってきたのだった。
それは「わかりやすくない」ということが、むしろ一つの価値かもしれない、と思えてくるような経験だった。
今回の狩生さんの音楽は、何にも似てない。どこで聴いたこともないから価値があるのだと、私は思う。
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