「私のしあわせ」を生きたい
「しあわせ」
これは人によって違います。
当たり前のことだけど、なぜか忘れてしまって、誰かにとってのしあわせについ憧れたり、それを追いかけてみたりしてしまいます。
有名な人が言ったソレ
お金持ちの人が持ってるソレ
誰かが言ってたソレや、誰かが持ってるソレ
「あ、いいな」
ってゆー小さな火が心に灯った時
「ソレを手に入れたらしあわせになれるかも」
と思ってしまいます。
どんどん『しあわせ』に条件がついていきます。
付いていくというより、「付けていく」が正しいのかも。
でも、しあわせって、実はすぐそばにたくさんあるものです。
小さなしあわせが、日常にはたくさん溢れています。
それも相当な数のしあわせが。
子どもの作品を飾った時に感じた、温かいもの。
それを「しあわせ」とするならば、それは本当にたくさん私の生活の中にあります。
でも、家族が私と同じようにしあわせを感じているかというと、それは違うかもしれません。
私と主人では、「しあわせ」と感じるところはきっと違うし、同じ部分もあるでしょう。
私と子どももそう。
子ども同士でも「しあわせ」と感じるところは同じ部分と違う部分があると思います。
『私(自分)』にとってのしあわせを見つけたい。
私が「しあわせ」に氣づけるようになったのは、私が「感じる」センサーを磨いたからです。
長年抑え込んできたので、だいぶ鈍くなっていました。
だから、それまでもずっと私の周りにあったけど、氣づいていなくて、ずっと私は何かを手にしたらしあわせになる。と思っていました。
特にお金。
実際、お金を追って大失敗しました。
でも、そうじゃなかった。
ずっとしあわせは私の周りにたくさんあったんだけど、私のセンサーが機能していなくて、それをしあわせだと思えなかっただけでした。
『私(自分)にとってのしあわせを見つけたい』
と書いたけども、もうすでにみーんな、自分にとってのしあわせの中にいるんですよね。
今置かれている環境
今所有しているもの、所有してないもの
周りにいる人、いない人
そのすべてが「今の私にとってのしあわせ」
『こんなのしあわせじゃない』
ってお怒りの声が飛んできそうね。
うまくいってない。
と感じる出来事があってもしあわせ。
そのうまくいってない。と感じる出来事を通して、「これは○○だと感じるんだ!」という学びにつながる。
もしかしたらそれは怒りかもしれないし、悲しみかもしれないし、悔しさかもしれない。
とにかく何らかの感情が動いて、その感情を感じるという経験ができている。
うまくいっている。
と感じる出来事があったらもっとしあわせ。
結局、『どうあってもしあわせなんだけど、どーゆーのがお好み?』って話。
ぐちぐちネチネチ文句を言うのが好きな人は、本人はそれがしあわせなんては到底思ってないだろうけど、それが好みでしあわせだから、ぐちぐちネチネチ言う。
自分が知らない情報にはどんどん飛び付いてって、感じることをしないまま情報だけかき集めてる人だって、それがしあわせ。
のんびりゆったりが好きで、誰かに合わせるでもなく、のんびりゆったり過ごしてる人は、それがしあわせ。
じゃあ、自分は?って話ね。
『私にとってのしあわせって何だろう?』
って何度も何度も自分に聞きながら、確かめながら自分にとってのしあわせを見つけたい。
そして、
「そーは言ってもここはどうしても、しあわせって思えない」って部分は、「じゃあどうしたらもっとしあわせを感じられる?」と自分に聞いてそちらに寄せていくしかないんだ。
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