心霊写真
私はかつて心霊写真が見えていた。
その頃は家族に不幸があり、なぜ人は死ぬのか、死んだらどうなるのか、ということに興味が集中し、宗教に入っている友人が周りに多かったり、とにかく死後のこと、神様のこと、霊魂のこと、そんなことばかり考えていた。
新興宗教に入っていた。
だから朝早起きして祈りを捧げたり、食事の度に感謝したり、日常が宗教的であった。
そんな中、図書館で何気なく手に取った「民族の◯◯」とかいう、今はもう覚えていない題名の写真集を開いた。
そのページを目にしたとたん、思わず「うっ」と声を上げ、動けなくなってしまった。
そこには墓地で祈りを捧げる白人の少年を横から写したモノクロ写真が掲載されていた。
古さからいってかつての大戦で亡くなった大勢の方の墓地だろうと思われた。
大小の墓石の間に無数の白い影があった。
もやもやしたもの、すうっと流れているようなもの、じっとこちらをみているような黒い2つの穴、その形は様々だったが、その無数の影は明らかに「霊」だった。
いろいろな思いを内側に抱えたまま、そこに写っていた。
そんなモヤっとした影ならただの光の加減ではないか、と、以前の私だったら思っていただろう。
でもそれは、そこに並んで写っている墓石と同じレベルの存在感でそこに写っているのだ。
「霊」として。
それは、もうそうとしか見えないのだ。
感じる、というのだろうか。
例えば今そこにある、コップだとか灰皿だとかに感じる「存在するものが放つエネルギー」と同じようなものが白い影から放たれているのだ。
しかもその写真集は、他のページも「霊」だらけだった。
心霊写真集ではない。「民族の◯◯」の写真集である。撮影した人も編集した人も心霊のことにいっさい気づかないまま出版したに違いなかった。
その写真集を見ている間、ずっと鳥肌が立っていた。なんだこれは。なんだこの写真集は・・・。
私がその写真集を見た場所はアメリカなので、今はもう手にとることはできないし、私もそういったことからは遠ざかってしまったので感じる能力もなくなってしまった。
でも、自分のアンテナがそちらに敏感になり、受け入れる心が整えば、見えるものなのだとわかった。
また見えるようになりたいとは思わないが、自分がそちらにチャンネルを合わせれば見えたり感じたりできるものなのだな、とはっきり理解できた経験であった。
他にも、今、感じていない世界がきっとたくさんあるのだ。
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