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ごまかしの限界。自分の中の“光”を探す

誰もが皆、元々オンリーワンなのだけど、私は長いこと、そうありたいともがいていた。少し前に心友とぶっちゃけ話をする機会があって、恐らく生まれて初めて自分は本当はこう在りたいと願う「立ち位置」を口にした。それまで無意識に隠してきたこの願望を認めた。それは…

オンリーワンで、目立つ。

言語化してみたら、小さい頃からの自分の行動もろもろが、すべてそこから派生していたらしいことに気づき、笑った。


小学生の頃は、意識も計画もせず、そのままそこにいるだけでちょっと目立つ子だった。クラスに一人くらいいなかっただろうか(小1息子のクラスにも、例にもれず一人いる)。その空気感や表情が何だか大人っぽい。私はまさにそんな感じの女の子だった。

中学生の時もその傾向は続き、同級生からも上級生からも、あるときは下級生からもモテた。この頃はメガネをかけ始めていたので、昔の写真をみればなぜこの子が?と疑問に思うのだが、なぜかそうだった。



オンリーワンを意識するようになったのは、女子校に進学したときだった。田舎ではあったが県内有数の進学校の女子校。そこにいたのは自分と同じような感じで目立ち、注目されてきたような女子たちばかり。はて、私はここでどうポジションをとればよいのか…?真剣に悩んだ。(そのとき私はある状態に入ったので、自然とオンリーワンになったが、長くなるので、その話はまたの機会に譲ろう)


大学進学で東京に出てからは、もう迷子だ。思考のカオスだ。一気に関わる人が多くなり、それぞれ個性を発揮していて、みんながみんな輝いて見えた。そんな中で自分の強みは何か、魅力は何か、オンリーワン要素は何か、全く分からなくなった。自分に自信が全く持てなくなっていた。それでも何とかごまかしながら取り繕っていたあの頃。10代後半から20代前半は、本当に苦しかった。


しかしそんなごまかしはいつか限界が来る。どこかで歪みが出る。自己肯定感や自己効力感というものが上手く育っていなかった私の思考や行動は、あらぬ方向へ向かった。それは「マウントをとること」。その場、その集合体において無意識にマウントをとろうとしている自分がいた。「この人ちょっと違う」と思われることを知らず選んで来たように思う。しかもそういうことを人に悟られずやっていたから、誰に指摘されることもなく、そんな自分の状態になかなか気づくことができなかった。


私は大人数で集まったり、何かを一緒にしたりすることが苦手だ。人と会うなら基本は2人がいい。集まるとしても3〜5人くらいが好きだ。その理由を深く考えたことはなかったが、「マウントをとる」という視点でみれば一目瞭然。大人数の中でマウントをとることが大変だからだ。あぁ…こう言葉にしてしまうと、救いようがないな。ただそういう一面は確かに私の中にあったのだ。(人の表情や感情を受け取りやすいので、大人数だと疲れてしまうという面もある)


今回、この隠していた願望をさらけ出せたのは、おそらく自分の中で受け入れ、消化できたからだろう。いいじゃん、そう思っていても。だって本当はそうなんでしょ?…認めたら、なんというか、力が抜けた。自分の中でずっと凝り固まっていたモノが溶け、もどかしさから解放された感じがしている。


なぜ消化できたのかといえば、ここ数年の様々な向き合いが有機的に繋がったのだと思う。仕事のペースがコロナ禍で強制的に緩んだことで、自分の心地よいペースや環境、大切にしたい人、大事にしたいモノが鮮やかに見えたこと。自分のトラウマや傷と向き合ったこともあるだろう。そして女性にとって根源である「子宮とつながる」経験をしたことも大きかった。


私は私のままでオンリーワンなのだと、今なら信じられる。人は皆、そのままでオンリーワン。その中で目立つ目立たないかはただ時代の流れによるもので、大きな問題ではない。無理やり創り出すものでもないのだ。


私はいま自分の内側だけを見つめている。内側の声だけに耳をすませて、このnoteを書いたり、創作をしている。それをどう受け取ってくれるかはその人次第で、私が意図したり計画したりできるものでないと、もう知っているから。


私は私の心のままに。自分の中の“光”を探すのだ。


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