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タジキスタン・パミール旅行記16 〜パミール・ハイウェイ帰り ホログ→ドゥシャンベ〜

当初予定より一日長くなったホログ滞在の最終日。体調は依然良くないとはいえ、回復に向かう気配も多少は見えてきた気がする。ドゥシャンベに戻る車は確保が難しいという話も聞いた。明日は早めに起きて乗合タクシー乗り場に行こう。

(前回の話および記事一覧)

ホログ最後の朝

2022年8月18日木曜日。ホログ最後の朝は6時頃に起床した。まずは宿前のカフェに行き、朝食である。

ホログ最後の朝食

店員さんともすっかり顔なじみ(?)になったカフェでは、ミルクコーヒーと「ミョードヴィー」(ロシア語で「蜂蜜の」の意。蜂蜜ケーキ?)を注文した。ホログでの最後の食事である。

まだまだ食欲不振だったが、ケーキはおいしく、ミルクコーヒーを飲みながらであれば何とか食べ進められる。その後ミルクコーヒーをもう一つ注文し、完食することができた。

途中、店員さんから一緒に写真を撮りたいと言われ、記念撮影をした。店員さんのスマホの後で、私のスマホでも写真を撮ってもらった。

カフェでの食事中、Aさんから連絡があった。昨夜のうちに連絡をすると言っていたのが来ていなかったので、どうしたのかなと思っていたが、間違って他の人にメッセージを送ってしまっていたとのことだった。

その間違って他の人に送ったメッセージのスクショでは「予約が取れなかった、5時に乗り場へ」となっていた。ともかくも急いで乗り場に向かうことにした。

カフェでの最後の朝。グント川の流れを見ながら。
カフェのメニュー。朝食代がいくらだったかはメモしていなかったが、このメニューによるとミョードヴィー(蜂蜜ケーキ?)が9ソモニ=約120円、カフェ・マローチヌィー(ミルクコーヒー)が2ソモニ=約27円。
ミョードヴィー(蜂蜜ケーキ?)とミルクコーヒ一杯目
カフェの店員のお姉さんと

ドゥシャンベ行き乗合タクシー乗り場

カフェを後にして宿の支払いを終えると、宿経営(?)のおじさんにタクシーが必要かと聞かれた。ともかくも一刻も早くドゥシャンベ行き乗合タクシー乗り場に行かなければならない。タクシーが欲しいと言うと、そのままおじさんの車で乗り場へと行くことになった。料金は30ソモニ(約400円)だった。

乗り場到着後、ドゥシャンベ行きの車自体は比較的容易に見つけることができた。ただし、値段は500ソモニで、席は前列中央。値段は交渉したが400ソモニでは不可とのこと。これで良いことにし、前列中央の、運転手さんとおばあさんに挟まれた席に座って出発を待った。

出発を待っていると、程なくAさんから連絡があった。Aさんによると、Aさんのおじさんが私をドゥシャンベのAさんの家まで送ってくれるとのことだった。いや、ホログからドゥシャンベまでは遠すぎる、いくらなんでも恐縮すぎる、それにもう車に乗って出発を待つだけの状態だし、と思ったが、間もなくおじさんも到着するとのことなので、急いで車を下りた(400ソモニでどうかと引き止められたが、行かざるを得なかった)。

ドゥシャンベ行き乗合タクシー乗り場にて
当初乗る予定だった車
パンジ川対岸のアフガニスタン側シュグナーンを望む

ドゥシャンベ行きの車

乗り場の少しホログ市内寄りのAさんに指定された場所で待っていると、間もなくAさんのおじさんに会うことができた。ただし、私を乗せたおじさんの車はすぐそこの乗合タクシー乗り場に入り、別の乗り合いタクシーを紹介された。450ソモニで後列を使える(後列全部かと思ったが半分、1.5人分だった)とのことで、韓国人観光客も乗っているとのことだった。ドゥシャンベまでおじさんに送ってもらうのはあまりに恐縮なので、少しほっとし、この車で行くことにした。

車は、前列が運転手さんと韓国人観光客のロシア語ガイドと思しきお姉さん。中列が韓国人観光客の男女2名(女の人のほうがガイドのお姉さんとロシア語でやり取りしていた)。韓国人観光客の二人と韓国語で少し挨拶をし、ロシア語ガイドさんともシュグニー語で少し挨拶をした。

後列は出発待ち中は私一人だったが、出発の少し前にお兄さんが一人乗ってきて、以上で乗客乗員が揃った。私と韓国人観光客以外は皆パミール人のようだった(私の隣のお兄さんがタジク人かパミール人か最初はいまいち自信が無かったが)。

間もなく車は出発した。

帰りのパミール・ハイウェイ

車は左手にアフガニスタン側のシュグナーン地区を見ながら、パミール・ハイウェイをドゥシャンベへと向かった。私の席は後列の左側だったので、窓に半ばもたれかかりながらアフガニスタンの光景を眺めていた。

車内より、アフガニスタン側のシュグナーン地区を望む

シュグニー語の歌

車内では、最初はシュグニー語の歌が主に流れていた。Boris Jurabekov(この時はまだ名前を把握していなかった)の「Baland sitora」や、Safarmuhammadの「Umre tizd」などの知っている曲もいくつか流れた。

今までパミールで耳にしていたシュグニー語の歌はどれも知らないものばかりだったので、知っている歌が流れてけっこう嬉しかった。

タジキスタンの歌手の歌

シュグニー語の歌の時間は、それほどは長くなかったかもしれない。車内のBGMは、間もなくタジキスタンやアフガニスタンの歌手のペルシア語系(タジク語、アフガン・ペルシア語=ダリー語、一部イランのペルシア語)の歌になった。

タジキスタンの歌手の歌では、私の知っている中ではズライホ・マフマドショエワ(Zulaykho Mahmadshoeva)の歌がいくつかあり、また前半がシュグニー語で、先日の結婚式では何故か後半のタジク語部分のみが歌われていたニギーナ・アモンクロワ(Nigina Amonqulova)の「Marines (Khush omadi yor)」も、全編が流れた。

ズライホの歌では、イランのポップス集のカヴァー的な「Popurrii Eroni」も流れた。この歌は、イラン出身(いずれも現在は欧米在住のはず)の3人の歌手の3つの歌、レイラー・フォルーハル(Leila Forouhar)の「Pardis」、ハミード・ターレブザーデ(Hamid Talebzadeh)の「Hamechi Arume」、カンビーズ(Kambiz)の「Shokolat」をカヴァーしたものなのだが、何故か最後の「Shokolat」の部分が始まるところで運転手さんは歌を飛ばし、次の歌へと進んだ。

道端での小休止

しばらく走ると、パミール・ハイウェイの道端で小休止した。

同乗者のうち、韓国人観光客のお兄さんは優しそうな雰囲気で、私にも穏やかにちょくちょく語りかけてくれた。韓国人のお姉さんのほうがロシア語を使いこなしているのに対し、お兄さんの話せる言葉は韓国語だけのようだった。私の韓国語力ではなかなか意味がわからない部分が多かったが、お兄さんの温厚な雰囲気が伝わってきた。

韓国人のお兄さんからは煙草も勧められたが、私は喫煙をしたことは無いのでお断りすることになった。

パミール・ハイウェイの途中で小休憩中。
小休憩場所からドゥシャンベ方面を望む。看板には「国民の統一は平和の礎である」的なことが書かれている。

アフガニスタン側の送電線

小休憩場所からしばらく進んだところで、アフガニスタン側に送電線の鉄塔が立っているのに気付いた。

「今まで気付かなかったけど、アフガニスタン側にも電線があるのか!?」

と思ったが、電線はすぐに川を渡ってタジキスタン側になった。どうやらタジキスタン側の送電線が、何の理由でかは不明だが一部区間アフガニスタン側に渡っていたようである。地形的にそこまで厳しいようには見えなかったが、それは素人が見たらそうなだけで、実際は対岸を通さないといけない地形的事情があるのかもしれない。

いずれにせよ、ごく短い区間とはいえ、タジキスタンの電線がアフガニスタン側を通っていたのは驚きだった。タジキスタンとアフガニスタンの、公式的(?)な側面からだけでは見えてこない「ごく近い隣人同士」的なものを感じた。

アフガニスタン側に立つタジキスタンの(?)鉄塔
アフガニスタンとの国境の橋のひとつ
パンジ川に流れ込むアフガニスタン川の小川。行きの車の車内から見た川の白い色がとても印象的だったが、帰りの車内から見た姿も印象的だった[。

アフガニスタンの歌手の歌

パンジ川の対岸にアフガニスタン側の集落を眺めながら車内に流れる音楽を聞いていると、ふと個人的に馴染みのあるメロディーが流れてきた。アフガニスタン出身の歌手アリヤナ・サイード(Aryana Sayeed)の「Saat-e brand」だった。

YouTubeでよく聞く曲で、歌詞を解読しようと思いつつできていなかったので内容は未把握だが、にぎやかで明るく気分が上がる歌である。アフガニスタン側の景色を眺めながら、一人心の中で少し盛り上がった。

アフガニスタンとの間に架かる橋のひとつ(左奥)。「Saat-e brand」はちょうどこのあたりで聞いた模様(ここで撮った動画の背景音に入っていた)。

昼食

車はクルゴヴァド(Kurgovad)という集落で小休憩を取り、その後もう少し走ってカライ・フムブ(Qal'ai Khumb)で昼食となった。

カライ・フムブは、ここから少し北西に入ってかなり険しい山越えをする本来のパミール・ハイウェイと、引き続きアフガニスタンとの国境のパンジ川沿いを南に廻ってゆるやかな山を超えクローブ経由でドゥシャンベに至る現在の主要ルート(行きもこちらを通った)とが別れる交通の要衝で、交差点の付近には多くの車が止まっていた。

車を降りると、ホログ方面に橋を渡ったところに「オリヨノ」(Ориёно)という名称を掲げたレストランか何かがあるのが見えた。「オリヨノ」は、アフガニスタンの別名でアリヤナ・サイードの名前でもある「アリヤナ」(アリアナ)のタジク語風綴りである(実際の発音はアフガニスタンのペルシア語でも「オリヨノ」に近い)。アフガン国境沿いらしい名前のレストランだな、と思った。

昼食のレストランは、件の「オリヨノ」だった。韓国人観光客の二人、ロシア語ガイドさんと同じテーブルを囲み、ロシア語ガイドさんはスープのようなものを、私を含む残り3名はオシを頼んだ。しかし、例によって私は大半を残してしまった。申し訳ない。。。

食後、ロシア語ガイドさんとシュグニー語および英語で少し会話をした。なぜシュグニー語を勉強しているか、ホログに知り合いがいる、等を話した。

Kurgovadにて小休憩。売店があり、何か買おうか悩んだが買わずじまいになってしまった。
Qal'ai Khumbの食堂にて。オシ(ポロウ)を食べようとしたがあまり食べられなかった。

アフガニスタンの歌手の歌2

カライ・フムブでの昼食後、パンジ川沿いの道を引き続き走りつつ、対岸のアフガニスタン側の集落を見ていると、再びアフガニスタン出身の歌手の聞き覚えのある歌が流れてきた。モジュガン・アズィーミー(Mojgan Azimi)の「Jannat」だった。

男女の逆転した世界を通して、アフガニスタンの女性の置かれている現状(および、作詞・アレンジのShahram Farshidがイラン人なので、おそらくイランの女性が置かれている現状も)を厳しく歌っている歌で、私にとって涙なしには聴けない歌のひとつである。

از این پس تو باید که بشینی و تبعیض ببینی و کلامی نگویی
これから先、あなたはただ座り、差別を見て、
何も言わないでいなければならない

対岸のアフガニスタン側の村を見ながら、目から涙がにじみ出てくるのを止められなかった。

Mojgan Azimiの「Jannat」を聴きながら見たアフガニスタン側の集落

ロシア語の歌

タジキスタン・アフガニスタンの歌手のペルシア語系の歌の後は、ロシア語の歌が延々と流れ続けた。かなり長い時間流れているように感じたが、例によって私の知っている歌は無かった。

道はやがてパンジ川から離れてアフガニスタンと別れを告げ、クローブ(クリャーブ)方面へと向かった。

クローブ付近でガソリンスタンドの横のお店に入り、水分補給用にジュースを買った。体調不良と疲れと元来のコミュニケーション力不足とで、店に入る時に店員さんに挨拶をし損ねてしまった。そのためか、店員さんの私に対する態度が少し微妙な気がした(気のせいかもしれないが)。

検問所か何かで小休止中
道端に牛がいた
パンジ川とアフガニスタンに別れを告げる
クローブから少し先に行ったヴォセ(Восеъ)というところで小休止
夕日に照らされて

イランのペルシア語の歌

ドゥシャンベが近づいてくると(と言っても到着までまだ何時間もかかったが)、車内を流れる歌はイランのペルシア語の歌になった。基本的には聴いたことの無いものが多いが、聞いたことある歌もいくつかった。

午前中のZulaykhoのカバーでは飛ばされていたKambizの「Shokolat」もあり、後半で本家版(?)を聴けるから飛ばしたのかな、と何となく思った。

途中、ナッツ類をいろいろ売っている半分露店風の店に立ち寄り、ナッツ類をいろいろ味見した。殻の堅いものが多かったように思う。何か欲しい気もしたが、結局買うのはパスした。周囲はかなり暗くなってきていた。

夜のドゥシャンベに近づく道は、何故かイランのペルシア語の歌が似合っているような気がした。歌詞の内容は把握できておらず、更に当時は歌のタイトルも知らず歌手名もおぼろげだったが、Aron Afsharの「Shab-e Royaei」を聴いている時には「これからドゥシャンベに帰るんだ」という気持ちが名残惜しささとともに湧いてきた。

ドゥシャンベ到着

夜21時過ぎ頃、概ね通常の時間どおりの約14時間の行程を経て、我々の車はドゥシャンベ中心部に無事到着した。もっとも、事前にはどこかで所要時間は最短12時間を切る、といった話も聞いていて、もう少し早く着くかも、と少し期待していたが、特にそういうことは無かった。

車の到着した場所は、どうも韓国人の二人組氏の宿の近くのようで、Aさんの想定していた場所とは少し違うようだった。とはいえ、この場所のほうが車も多く(恐らくタクシーも多く)、Aさん宅のあるザラフシャン地区にも少しだけ近いので、特に問題は無かった。

韓国人二人組ほか乗客・乗員に別れを告げ、私はAさん宅に向かうべく周辺のタクシーに声をかけた。事前にAさんに教えてもらっていたタジク語の表現でタクシーの運転手の兄ちゃんに目的地を伝え、タクシーに乗った。

タクシーでは、運転手の兄ちゃんとパミールに行っていたという話等をした。日本では何をしているのかという話題にもなり、「〜を作っている」という話をしたかったが、「作る」「make」を何と言うかがペルシア語(タジク語)でもロシア語でも思い出せず、詰まってしまった。タクシーを降りてだいぶ経ってから「ソーフタン」(「私は作っている」なら「メーソーザム」)だということを思い出した。

ザラフシャンが近づくと最後の細かい部分はAさんが私のスマホ経由で運転手の兄ちゃんに伝えてくれ、無事Aさんのアパートまで到着した。アパートでは、Aさんが下まで迎えに来てくれた。

Aさん宅では、Aさんとおばさんに夕食をいただき、パミール旅行の報告や、明日の空港行きの予定の話をしたりした。明日はいよいよタジキスタンを発つ日である。

(続き)


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