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パミール旅行記 1 〜序章〜

今年(2022年)の夏、私はタジキスタンを旅した。目的地はタジキスタン東部ゴルノ・バダフシャン自治州の州都ホログ。「世界の屋根」とも呼ばれているパミール高原の中心地である。

◇ ◇ ◇

私は以前から、何となくパミール高原に興味を持っていた。理由のひとつは、パミール高原に住んでいるパミール人の主要宗教だというイスマーイール派である。イスマーイール派はイスラム教シーア派の一派で、知る人ぞ知る少数宗派だが、非常に長く変化に富んだ歴史を持っている。イスマーイール派はその長い歴史の中で様々な側面を持ってきたが、個人的には「知識や学問を重視した宗派」とのイメージが強く、その点に特に魅力を感じていた。また、現代のイスマーイール派はイスラム教諸宗派の中でも特に寛容な宗派とされており、その点にもおおいに惹かれるものがあった。

また、パミールの歴史も興味深かった。ネット上でWikipediaか何かで見た情報によると、かつてマルコ・ポーロ(1254年頃〜1324年)がパミールを訪れた時、この地はマケドニアのアレクサンドロス大王(BC356年〜BC323年)とペルシアのダレイオス3世(BC380年〜BC330年)の娘の末裔を称する王によって治められていたという。また、私はペルシア語の詩に興味を持っているのだが、パミールに先述のイスマーイール派をもたらしたのは、ナーセル・ホスロー(1004年〜1070年以降)というペルシア語詩人だといい、時代的にはマルコ・ポーロより数百年ほど前のことである。

私はさらに、パミールの言語にも魅力を感じていた。パミールでは「パミール諸語」と総称される独自の諸言語が話されているとされている。実際に現地でどの程度使われているのか、広く使われているのか現地でも少数言語なのかは当時は不明だったが、言語好きな私としては興味をそそられるところがあった。

そしてパミール高原の、おそらくはこの地を訪れる観光客の大半が目当てにしているであろうものとして、その険しくも美しい自然が挙げられるが、パミールの自然は、私にとってももちろんおおいに魅力的であった。

しかし、私のパミールへの興味は、あくまで「何となく」に留まっていた。パミールは私にとってあまりに遠く、ある意味、夢のまた夢の存在であった。パミールに行けたらいいな、と思うことはあっても、実際に行ってみようという発想に至ったことは無かった。私の中でパミールは、それに直接関係する情報を見た時には興味深いと思うが、間もなく記憶の片隅に押し込まれ、ほとんど忘れてしまう存在だった。

ある時、私はふと思い立って、日本人はアフガニスタンに行けるのかという情報を調べたことがある。そしてインターネット上のブログで「パミール・ハイウェイからアフガニスタンの光景を眺めた」とか「ホログ(パミールの中心地となっている町)でアフガニスタンのビザを取得した」といった情報を見たりもした。しかし、それらはあくまで「アフガニスタン」関連の情報であり、私の中で「パミール」という存在が思い起こされることは無かった。

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昨年秋、私はひょんなことから何人かのタジキスタン人と知り合う機会があった。そのうちの一人がBさんだった。Bさんにタジキスタンのどこの出身か聞いてみると、ホログ出身とのことだった。

(ホログ? どこかで聞いたことがあるな。そうだ、日本人がアフガニスタン・ビザを取ることができる(できていた?)町だ)

と思い出し、Bさんに「ホログって、タジキスタンの南東のほうにある町だっけ? インターネットのブログでホログに関する記事を見たことがあるよ」と言った。Bさんは私がホログという町の名前を知っていることに興味深げだった。

しかし、この時点では私の中で、ホログという町の名前とパミールという地域名は結びついていなかった。Bさんのことも、普通にタジキスタンの主要民族であるタジク人だと思っていた。

そもそも私は、趣味でペルシア語を勉強しており、ペルシア語の詩や、その他ペルシア語に関係するものに興味があったのだが、その関係でタジキスタンにも興味を持っていた。タジキスタンの公用語であるタジク語は、タジク・ペルシア語とも呼ばれるペルシア語の一種である。日本で最も容易にアクセスできるペルシア語であるイランのペルシア語と比べると、タジク語は部分的により古風な姿を留めている面もあり、ペルシア語好きとしては興味深い言語であった。タジキスタン自体も、自国の起源をペルシア文学の歴史上重要なサーマーン朝(819年〜999年)に結びつけており、ペルシア語詩人の始祖と呼ばれているルーダキー(880年〜940年頃)は現在のタジキスタン領内出身とされているなど、ペルシア詩好きとしては外せない国であった。私はここ数年はタジキスタンの歌手の歌をYouTubeやiPodでしばしば聴いており、さらにはベスト社の「タジク語入門」なる本も、買っただけで全く読めてはいなかったものの、家の本棚に飾っていた。

そんなわけで、私はタジキスタンやタジク語に興味がある、ということをBさんに話していたが、そんな私に対して、Bさんは次のように言った。

「我々はタジク人ではない。パミール人である」
「我々の文化はタジク人の文化とは異なり、宗派もスンニ派ではなくイスマーイール派である」
「言語も、我々独自のシュグニー語というものを持っている」

これを聞いた瞬間、私の頭の中で、それまで記憶の片隅にバラバラに押し込まれ、ほとんど忘れかけていたパミールに関する知識が、一気にひとつに結びついた。

「だから私はパミールに興味があるんです!」

私は思わずBさんに向かって叫んだ。

◇ ◇ ◇

私にとって、それまで夢のまた夢の世界だったパミールは、一気に身近な存在になった。Bさんと同時期に知り合いになった他のタジキスタン人も、皆パミールの出身だった。

Bさんからは、パミールやホログについてもいろいろと教えてもらった。

ホログでは人々はシュグニー語(パミール諸語のひとつ)を話しており、ロシア語やペルシア語(タジク語)も理解し、さらに若い人は英語もできるという。私はロシア語やペルシア語を片言ながら理解し、英語も苦手意識はあるがある程度はできるので、親近感が湧いた。それとともに、残るもう一つの言語でホログの人々の母語であるシュグニー語についても、話せるようになりたいと思った。

先述のとおり、私はイスマーイール派に興味があり、とりわけ現代のイスマーイール派コミュニティーの「雰囲気」的なものを感じたい、という思いがあった。シュグニー語は基本的には話し言葉としてのみ用いられている言葉であって、シュグニー語で書かれたイスマーイール派関連の資料があるわけではなく、そもそもシュグニー語で書かれた書籍や文献自体ほとんど存在しないのだが、世界有数のイスマーイール派コミュニティーであるホログの「雰囲気」を感じる上では、現地語を知っておくことは重要であろう。卑近な例で言えば、例えば浄土真宗の教義等は広島弁で書かれているわけではないが、浄土真宗安芸門徒の社会が生み出すダイナミズムを肌で感じようと思ったら、広島弁を多少なりとも理解できることが必須ではないだろうか。

私はシュグニー語の勉強を開始した。そして、シュグニー語を勉強していくにつれ、パミールへの思いも募っていった。最初は「いつかパミールに実際に行ってみたい」と半ば希望観測的に思っていたのが、間もなく「すぐにでも行きたい」に変わっていった。

◇ ◇ ◇

世界では、ロシアがウクライナへの侵攻を始めていた。プーチン大統領は、自分の思い通りにならなければ核で世界を滅ぼす、的な趣旨のことも言っていた。単なるハッタリで言っているのだと思うが、何かの手違いが起こる可能性も皆無では無い。一方のパミールについても、日本語メディアでは全く報じられていなかったが、情勢はあまり良くなく、今後どうなるか予断を許さない状況だった。

その一方で、ここしばらく続いていたコロナ禍による規制は徐々に緩和されていた。それまでの「日本から海外に行くのが困難」という状況は、「日本から海外には行けるが帰ってくるのが困難」に変わりつつあった。そして問題の帰国のほうも、金銭的・時間的負担は徐々に削減されているようであった。

明日がどうなるかということは、一般論として常に不確かである。しかし今年に入って、その明日の世界の不確かさが、いつも以上に増しているように思われた。今年ならできていたことが、来年にはできなくなってしまう。その可能性が高まっているように思われた。一方で、海外旅行の物理的・金銭的・時間的障壁はかなり下がっていた。行ける時に行かなければ、一生後悔することになるかもしれない。

今年の夏に長めの休暇を取り、少なくともタジキスタンの首都ドゥシャンベまでは行き、もし可能そうならパミールにも行こう。私はそう決めた。Bさんはその時期タジキスタン国外にいるとのことだったが、Bさんの家族は国内におり、私の訪問を歓迎しているとのことだった。他のパミールの知人も皆、私のタジキスタン訪問計画を歓迎してくれた。

私はタジキスタン訪問に向けて動き出した。

(「パミール旅行記 2 〜準備編〜」へ続く)


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