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タジキスタン・パミール再訪記20 〜ムルガブ→ホログ〜

2023年5月2日火曜日。この日はムルガブからホログへと帰還する予定である。


ムルガブ出発

朝、ムルガブ(ムルゴブ)を出発。家を出る前に、おじさんと記念撮影をした。出発してからは、ムルガブの町外れの橋を渡った先で、ムルガブの町をバックに記念撮影をした。

出発前。おじさん、Vさんと。
ムルガブの町を背景に。時刻は7時少し前。

旅は道連れ

もう少し先に進んで検問(Vさんが手続きをした)を終えると、車に水色のコートを着たおじさんが乗ってきた。おじさんはシュグニー語が母語で、この車に便乗してシュグナーン(ホログ)方面に行くようだ。

おじさんにシュグニー語で

「ワホェーネ・ゼヴ・ファーメヨー?」(ワヒー語がわかりますか?)

と聞いてみた。おじさんは「ワヒー語もキルギス語もわかる。何故ならムルガブに住んでいるのだから」と言った。

検問所にあったモニュメントにて

富士山が恋しい

ムルガブの町を離れると、道は標高を上げていき、間もなく富士山の標高を超えた。標高4000m前後に達した後は、概ねその標高を維持しつつ道は延々と続いた。

車は加速と減速を繰り返しつつ進んた。頭痛がかなりし、早くホログに着いてほしいという気持ちになっていた。富士山の標高が恋しくなった。

おじさんとVさんはシュグニー語でいろいろと話をしていた。私のシュグニー語力では詳しくはわからなかったが、ワハーンで1時間ずれた時間を使っていることについても話しているようだった。

ムルガブを離れてしばらくのところにあったモニュメントにて
モニュメントの場所からホログ方面を望む
もうしばらく進んだ場所で小休憩
標高は4000mを超えた。
上記標高計スクショとほぼ同時刻の車窓

アリーチュール

昨日は通過したアリーチュール(Alichur)の町で小さな食堂に入り、朝食を摂った。車から食堂まで歩いている間、外はかなり寒かった。

朝食はシュルボーをたのみ、パンをつけて食べた。体調が悪い時にシュルボーは喉を通りやすいと思った。

アリーチュールを出発してしばらくし、行きでも見た湖の傍らに車を止めてもらって湖の近くまで行ってみた。

遠くにアリーチュールの町が見えてきた
アリーチュールの町の建物
朝食のシュルボーとナン
アリーチュールの食堂にて。時刻は9時半過ぎ。
アリーチュールの近く(※車で30分〜1時間くらい)の湖
風が強かった

シュグナーン帰還

ワハーン方面の道が左手(南側)に別れた後、しばらく進むと広い谷は終わり、道は標高を上げていった。進行方向右側に、今まで走ってきた谷が広々と広がり、かなりの絶景だと思った。

谷から登ったところの、あまり険しくはない地形をしばらく進むと、ムルガブ地区とシュグナーン(シュグノン)地区の境界まで辿り着いた。ここから先はあとはホログに向けて下るだけだ、と思った。

今まで走ってきた広い谷から坂を上る途中。今まで走ってきた谷がなかなかのパノラマだった(写真はいい感じには撮れなかったが^^;)
谷から登った後も思ったより滑らかな地形
ここから先はシュグナーン(シュグノン)地区。時刻は12時前(ムルガブから5時間弱)。
ムルガブ地区方面のモニュメント
ムルガブ方面を振り返る
シュグナーン方面への道

シュグナーン地区

雪景色

シュグナーン(シュグノン)地区に入ると、あたりはにわかに一面の雪景色になった。

一面の雪景色の中を道の轍だけが伸びているといった感じで、その道の具合も悪かった。標高もやや上がっているようで、手元の高度計アプリで最大4299mになった。昨日の4301mととほぼ同じ標高である。

ホログ→ムルガブのパミール・ハイウェイのメインルートは、思ったよりもなかなか厳しい道だった。特に、シュグナーン地区に入ってからの厳しさは予想外だった。

雪の中の道を行く
標高は4299mに達した
標高4299m付近の風景

こんにちは富士山

雪景色を抜けると、道はそれなりの勾配の下り坂をどんどん下っていくようになった。車内の音楽はちょうどアフガニスタン版の「Soltan-e qalbha」になった。Vさんは私のほうを見て笑い、私もわかる範囲で歌詞を声に出してみた。

車は標高を下げていき、だんだんと富士山の高さに近づいていった。高度計アプリが3776mになった時、

「こんにちは富士山、私は帰ってきた!」

と心の中でつぶやいた。

道はぐんぐんと標高を下げていく
3776mまで帰還!(記録によると、4299m地点からは25分ほど)
3776m付近の光景。車よ、ここが富士山だ。

温泉

富士山の標高からもうしばらく降りたところで、道を外れて小さな集落とも集落未満とも言える場所に入った。ここに小さな温泉があり、そこに入ることになった。

VさんとWさん、私がお風呂に入り、道連れのおじさんは湯船の脇で我々(主にVさん)と話をした。頭痛はかなりしていたが、良い湯だった。

温泉から出た後、温泉の脇に小さな売店があり、多少買い物をした。

温泉。手前が男湯で奥が女湯。時刻は午後1時半。この時のお客は我々だけだった。
温泉の近くにあったモニュメント
ホログ方面に下る道

満員の車内

温泉を後にしてさらに延々と道を下ると、周囲に人の気配がするようになった。途中で車内におばさんが何人も乗り込み、後部座席はおばさんたちで満員、車内はおしゃべりでにぎやかになった。

おばさんたちはしばらく車に乗り、それから下車した。

ホログが近付くと、グント川が湖状になっている部分があった。Vさんによると、何年か前の土砂災害で川がせき止められたらしい。道も、元々の道と思しき道から離れて応急に作られたと思しき道になった。しばらく進むと、本来の道と思しき道が湖の中に沈んでいくのが見えた。

牛の群れと遭遇
グント川と河原

パミール人が英語を話せる理由

Vさんは、パミールの若者に英語の話せる人が多い理由についても話をした。

旧ソ連の崩壊(1991年)によるタジキスタン独立後、タジキスタンは内戦状態に陥り(1992〜1997年)、パミールの人々は非常に窮乏し危機的な状況にさらされていた。その危機を救ったのが、パミール人が1000年間にわたって信仰してきたイスマーイール派の現イマーム(精神指導者)、アーガー・ハーン四世殿下だった。

イマームはまず、人々が生きるのに必要な食料や衣類を与えた。ただし、直接的な物資の支援は最初だけで、次にイマームが人々に与えたのは教育だった。そして、教育の中でも、とりわけ英語を学ぶことの重要性が説かれた。パミールの人々が世界と繋がり、自らの力でより良い生活を送ることができるようになるためである。

以降、パミールの人々は自分たちの子供に英語を教えるようになり、現在ではパミールの若い世代は英語を話せる人が多くなったという。

私は以前、パミールの人々が英語を話せる理由として「アーガー・ハーン四世殿下がパミールを訪れた際に英語で人々に語りかけたので、子供たちにイマームの言葉である英語を教えるようになった」という話を聞いたことがった。

大枠としてはそれと同じであるが、多くのパミール人が犠牲になったとされるタジキスタン内戦との関係については、今までほとんど考えていなかった。

一般に英語が通じないとされるタジキスタンにおいて、パミールの若者が英語を話せるのには、重い理由があった。

パミールとロシア

なお、パミールの人々は一般にロシア語力も高く、特に若い世代の言葉では、シュグニー語などの現地語で話している際にもロシア語の単語やフレーズが多く入ってくるようである。また、ロシアへの親近感の強さもしばしば感じられる。

19世紀にこの地が帝政ロシアの支配下に入る前、イスマーイール派のパミール人は周囲のスンナ派勢力による厳しい圧迫にさらされていたが、それを終わらせたロシアは解放者として迎えられた。ソ連時代にはパミール・ハイウェイや空港などのインフラも整備され、電気も通るようになった。

Vさんも、ソ連時代に多くのインフラが整備されたことや、それらのインフラによってタジキスタン側の生活がアフガニスタン側とは大きく異なっていることなどを話していた。ロシアに対して恩義を感じていることが伝わってきた。

中央アジア最貧国のタジキスタンの中でも特に貧しいとされているパミールだが、川をひとつ隔てただけのアフガニスタン側との格差はなおも大きい(アフガニスタン側のほうがはるかに貧しい)。アフガニスタン側との格差については、パミールの知人からしばしば聞かされる。

ホログ到着

ホログの手前の検問を通過し、洞門が連なっている谷間を抜け、ホログの町に辿り着いた。ホログに着けば頭痛も治るかと思ったが、依然としてかなり頭痛がしていた。

ホログの町の向こうには、ワハーンで別れて以来になるアフガニスタン側の山々が見えた。ムルガブからのおじさんも下車し、車は宿の近くに着いた。

時刻は17時頃だった。Vさんに車代4000ソモニを払うことになっていたが、銀行はすでに閉まっており、両替はここでもできない。Vさんらはワハーンに帰る予定なので、明日ホログで両替、というわけにもいかない。結局、400ドルを払っておつりをソモニでもらった。

Vさんと別れて宿に入り、宿のおじいさんに帰還を告げた。頭痛は治らないままだった。

ホログに帰還。時刻は17時。ムルガブから10時間の旅路だった。

(続き)

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