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「シック・マザー」な母と私

「お母さん、乳ガン。」
昨晩の暴風雨が明け、からっと晴れた朝。実母からLINEが届いた。
乳がんに罹患したという内容に驚き、急いで電話をかける。

今後は抗がん剤治療をして、切除手術を行うという。
「いまや2人に1人は何らかのがんに罹るというから、そんなにショックではないけど…髪の毛が抜けるのは嫌だわぁ~」と、いつもと同じ陽気な声で話してくれた。


心を病んだ母親が子に与える影響

「シック・マザー」を手に取った理由

冒頭の内容から話は飛ぶけれど、「シック・マザー」という呼称はご存じだろうか。
精神科医・岡田尊司氏の著書にある。

私はこの本を、しんどい気持ちになりながら読み終えたばかりだ。
これを手に取った理由。それは、私のいまの状態が3歳の娘に与える影響を知りたかったから。

昨年10月に適応障害の診断を受け、休職のち今年3月末で退職した。現在は、抗うつ薬と抗不安薬を服用して自宅療養中。

いまは服用薬のおかげか、穏やかな心で娘に接することができる時間が多くなっている。でも、休職中の3ヶ月間は酷かった。

  • すぐに感情的・感傷的になり、怒りの沸点が低い

  • 眠りが浅い・食欲不振・やせ細り

  • 動悸・過呼吸・突然の涙

  • 娘と夫を置いて家出(2時間くらい)

  • 希死念慮・虚無感・思考力低下

こんな状態を、幼い娘はどう感じ取っているのか。この先、彼女の行動・思考にどんな影響を及ぼしてしまうのだろうか…。
そんな不安から、たまたま図書館で目にした「シック・マザー 心を病んだ母親とその子どもたち」というタイトルに、くぎ付けになったのだ。

母が安全基地となり得ているか

本の内容を要約すれば、安定した愛着形成の重要性である。

シック・マザーに伴う子どもの問題は、日照不足で植物が元気を失い、枯れ始めているのと基本的に同じことである。植物自体をいくら治療しようとしても、自ずと限界がある。もっとも必要なのは、十分な日が注ぐ場所においてやることである。

「シック・マザー」(筑摩書房)

子どもにとって「安全基地」と認識できる存在があるか否かで、大人になってからの愛着スタイルが決まるという。

非行に走ったり、いい子を演じたり、自分に自信が持てなかったり、人や物に依存してしまうなど。
遺伝子的な要因もあるが、子に対して無関心・過保護・厳しすぎ・甘やかしすぎといった接し方だと、安定した愛着形成はされ難い。

しかも、特に重要な臨界時期は0歳~1歳半くらいだという。
(日本人は欧米に比べて不安遺伝子が多いらしい。欧米式のネントレは大丈夫なのか?と勝手に邪推)

さまざまな事例と研究結果とともに述べられているので、まるで一般人向けの解り易い論文を読んでいるかのようだった。

ただ…
この本のしんどさは、たびたび現れる以下のような内容のためだった。

シック・マザーの悲劇性は、母親というものが子どもへの献身を求められるという宿命を負いながら、自分自身が抱える苦悩ゆえに、その献身が困難になってしまうことに起因する。

自己愛が成熟することによって、他者への愛が可能になる発達のプロセスが、自己愛の段階に滞留することで自己愛障害が生じるように、病によって自己愛の段階へのスリップ・バックが起きることで、自己愛障害に陥ったのが、まさにシック・マザーの状態だと言えるだろう。

つまり、シック・マザーとは、病気や精神的な問題によって自己愛障害に陥り、子どもに愛情を注げなくなった状態だと言うこともできるだろう。自分の傷つきや苦しさゆえに、子どもを愛せない母親、それがシック・マザーの本質的な病理なのかもしれない。

「シック・マザー」(筑摩書房)

自身の病状・気分に振り回されてしまい、娘に十分な関心やスキンシップを与えられない。そんな私の現状を指摘されているように感じたからだ。

しかし、救いはあった。
責任転嫁したいわけではないが、シック・マザーに至るには、本人にはどうしようもない事由もあるということ。

シック・マザーの問題は、決して母親一人の問題ではない。それは、母親の抱えている問題が子どもに及ぶというだけでなく、母親もまた、一人の子どもとして、その親や家族から影響を受けてきたということである。

また、もう一つ忘れてならないのは、夫やパートナーとの関係も、深くかかわっているということである。シック・マザーひとりでは、シック・マザーとはなりえない。
さらに言えば、どんな母親も、最初から、母親になる能力が与えられていたわけではない。 幼い頃から長い時間をかけ成長する中で、母親となるために必要なものを授けられ、培われてきたのである。

母親がシック・マザーの状態に陥っているとしたら、母親を育て、支える家族や社会の力が不足しているのである。

「シック・マザー」(筑摩書房)

私のお母さん

強烈な真夏の陽射しのような母

この本を読みながら、自分の幼少期はどうだったか、幾度となく回想した。

私の母は、しつけに厳しかった。
人として、してはいけないこと。社会的に、守らねばならないこと。

何か粗相をしようものなら「あんたはまた、面倒をかけて!」「どうしようもないね!」と鬼の形相で叱られ小言が続き、しばらく無視されることもあった。

小学校低学年くらいのときの記憶。2つ上の姉が何かを仕出かして、家から閉め出された。庭で泣く姉を、私が心配そうに窓にへばりついて見つめていると、私も一緒に閉め出された。
日が暮れて仕方なく姉と庭の物置きに身を隠していると、帰宅した父が見つけてくれて、ようやく家の中に入ることができた。

実家にいた頃の私は、母を怒らせないように様子を伺い、世間体として恥ずかしくないよう模範的な学生であろうとし、勉学にも励んだ。
心の中ではむかっ腹が立つこともあっただろうが、突出した反抗期は無かったように思う。

なぜか。
母の苦労を感じ取っていたからだ。
母は三男坊の嫁で、多くの親族が近所に居るという状況だった。
親族の集まりでは、事前準備を入念にし、現場ではテキパキと配膳をし、お義姉さんたちの世間話に滾々と付き合っていた。

パート先でも頼られると、人が足りないから仕方ないと言って、ずるずると勤め続けていた。本人も頼られることについては、満更でもなかったのかもしれない。

いつしか私もそれに倣ったのだろうか。従兄には「お母さんに似てきたね」と言われたことがある。顔ではなく、行動に関しての指摘だったと思う。

  • 姉は、適度に手を抜き世渡り上手な思考と行動を手に入れた。

  • 私は、きっちりやらないと気が済まない完璧主義を手に入れた。

ただ不思議なことに、母をひどく恨んだこともないし、毒親と感じたこともない。これが「無意識の母という病・呪い」に当たるのかもしれないが、現在そう認識しても、母を恨む気持ちは微塵もない。

親元を離れて

母からは常々「二十歳になったら家を出なさい」と言われていた。
その言葉通り、私は地元の専門学校を卒業後、就職のため東京へ上京した。

すると毎月のように、母から食材や日用品の仕送りが届いた。心身を気遣う手紙も添えてあった。
家を出て感じたのは「お母さんって、こんなに過保護だったっけ?」という違和感だった。35歳になったいまも、仕送りは度々届く。ずいぶん前から、もういいよと言っても聞かない。

私は、32歳で娘を出産した。
母は「子どもは授かりものだから」と言っていたが、私にはわかっていた。親族の中で唯一、孫が居なかった母と父。初孫は待望だったのだろう。
頻繁に帰省できる距離でもないのに、チャイルドシートを入れられるようにと車を買い換えていたらしいのがその証拠だ。

躾が厳しかった理由

里帰り出産をした際、母と昔話をする機会が増えた。いまも覚えている会話がある。

「お母さんさ、私らが子どもの頃、こたつ机の上に座るなってすごい注意してたよね。さっきお姉ちゃんが座ったけど、気にならないの?」

「ああ、子どもの頃は言うさ。ダメなものはダメって言わないと判らないでしょう。でも大人になったら、そのへんの分別はついてるでしょ」

もういい大人が揃った身内だけの空間なので、姉を咎めなかったのだろう。
人様の家ではするべきではない、ということはもう理解できているはず、ということらしい。

思えば、祖母もセカセカした人だった。手足も、口もよく動かす。
祖母は「私の姑さんは、もんんんのすごくキツイ人でねぇ」が口癖だった。

上の人を立て、自分の気持ちを抑えながら、滞りなく事が進むよう先読みして行動する。こういった当たり前の認識は、脈々と受け継がれていたのだ。

母のむせび泣き

昨年9月。母の弟、つまり私の叔父が急逝した。祖父と同じ脳卒中だった。

棺が火葬場の炉に入るとき、母と叔母は、叔父の名前を呟きながら嗚咽していた。あの、めったに泣かない母が。
実の父親である祖父が亡くなったときは、それほどでもなかったと記憶している。やはり自分より年下の者が逝ってしまう不条理に、感情が溢れたのだろうか。

ちなみに祖母は、入院と認知症のために参列はできていなかった。
ただ最後に運ばれた病院が奇しくも同じで、姿は見られたようだ。

この頃から、私の心身不調が始まった。

祖母の介護

祖母の家には、叔父一家が住んでいた。
親族会議が開かれ、足を骨折し車いす生活となった認知症の祖母の介護は、一時的に母が引き受けることになった。
経済面でも、嫁姑関係の面でも、遺された叔父一家では難しいとの判断からだった。叔母は遠くに住んでいるので、必然的に母(私の実家)が看るのが現実的だったのだと思う。

介護期間は、高齢者ホームに入れるようになるまで。
しかし入居まで100人待ち。田舎なので、施設数にも限りがある。
曰く、1年以上は待つだろうとの予想だった。

母はパートを辞め、介護に専念することになった。
祖母の認知症の症状はひどかったらしい。口は回るので、繰り返し絶えず聞かされる「帰りたい」「〇〇(亡くなった叔父の名前)はまだ家から迎えに来んのか」などの要求や話題に、介護側もイライラが募る。
定期的な身体検査も、複数の科を渡る。やはり田舎なので、市立病院しかない。待ち時間も長い。大変疲れると、母も愚痴をこぼしていた。

そして、乳がん

先週、実家住まいの姉から連絡があった。祖母の入居が4日後に決まったそうだと。介護がはじまり約6か月。当初の想定より短かった。あまりにとんとん拍子で決まったので、拍子抜けした。

そして、冒頭の話に戻る。
母が、乳がんのステージ2であると診断を受けたという。
もともと、3月あたりには自分でしこりを認識していたらしい。しかし祖母の介護で、自分の受診を延ばし延ばしにしていた。

しこりが大きくなってゆき、母はついに高齢者ホームの窓口の方に相談。祖母の入居待ち順番を、考慮していただけたようだった。

電話口の母は、努めて明るい声色を出していた。私も母の負担にならないようにと、気軽なトーンで会話をした。
そして、来月には娘とともに帰省する約束を付けて、電話を切った。

電話を終えたあと、ひとりむせび泣いてしまった。
ステージ2ならば、5年先の生存率も高い。9割という数字もネットで見た。
でも。

何故、この短期間に、これほど苦悩する出来事が続くのだろう。
母が不憫でならない。

しつけや態度は厳しかったけれども、勉強しなさいと言われたことはなかった。
進学先や就職、退職についてなど、私の希望に反対されたこともない。
幼い頃も、サンタクロースとして欲しいものを用意してくれたし、茶目っ気な面もあったし、食事はいつも豪華だった。

母が与えてくれたものが少し不器用ながらも、確かな愛情であることは、私には伝わっていた。
結婚式で読み上げた感謝の手紙に、嘘は無いよ。

おかあさん。


補足

同じような心の不調を抱えた親御さんに紹介したい補足書籍&動画です。

文庫版

タイトルが少し変わって、同内容の文庫版もある。

同著者の別のおすすめ本

同時期に読んだ以下の本は、どちらかと言えば「病める母親の子」を主な読者として想定されている印象を受けた。
私は「病める母親」として読んだが、「シック・マザー」よりしんどかった。参考にはなるけれど、同じような状況の方はご留意されたい。
なお「父という病」「夫婦という病」という本もある。私は未読だが今後読んでみたい。

教育視点からのおすすめ動画

「シック・マザー」 で言われていた子にとっての「安全基地」や愛着(愛)の重要性について共通点が多く、勉強になった。


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