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プロクルステスの寝台

「ベッドに合わせて頭と足を切り落とす」

なぜかこんな物騒な言葉が頭に浮かぶ。(不快になられた方がいたらごめんなさい。)

この言葉は、ギリシャ神話にある「プロクルステスの寝台」という話に由来するもので、「無理やり基準に合わせる」という意味で使われるらしい。いわゆる、「杓子定規」と同じような意味。

この神話をごく簡単に要約すると、「昔、恐ろしい山賊プロクルステスがおり、旅人を自分のアジトに引き込んでサイズの合わないベッドに寝かせ、旅人の体がベッドより長ければ頭と足を切り落とし、短かければ体を引っ張ってベッドの長さに無理やり体を引き伸ばした。そんな悪事を繰り返していたプロクルクテスは、最後に英雄テセウスに退治された。」というもの。

この言葉は比喩として、うまく表現されているなと思う。
無理やり型にはめようとしたり、現実を捻じ曲げてでも規則やルールを大事にする考え方がこれに当たるのだが、物事の本質を見失った時に誰しもがやりそうだな、と思う。
「ベッドに合わせて足と手を切り落とす」なんていう表現は、「杓子定規」より強制力があり、物騒なイメージも相まってインパクトを感じる。

世の中のたいていのことは、規則、ルールで成り立っている。だから、それらを守らなければ秩序が保てなくなるし、必要なものだ。だけど、たまに現状とルールが合っていないような事態が生起する。ルール通りにやることが必ずしも良い結果に繋がらない場合だ。
法律に例えるなら、どんなに変だと思う法律でも、改正されない限り適用される。それでも、法は守らなければならない。法治国家の鉄則。「悪法もまた法なり」である。

でも、だ。
本質を考えたとき、疑問に思わないのだろうか。
ルールをそのまま当てはめるだけでは物事が歪んでしまうのではないか?
ルールを守ることが目的化し、ルールの前に考えないといけないことを見失っていないだろうか?

昨日、仕事で必須の機材が使えなくなることを知らされた。
その担当者は、「そういう決まりなんで。」とだけ言っていた。
今後、その機材がなければ仕事がほとんど回らなくなる。それでも担当者は「自分の仕事は機材の管理だから、”後のこと”は知らない」ということらしい。「じゃあ、誰が”後のこと”を考えてくれるの?」と聞くと、そんな人はいないし、予算がつかない以上は古い機材だろうが新しい機材だろうが、何一つ入ってはこないらしい。

担当者がその場からいなくなった後、ふと浮かんだのが「プロクルステスの寝台」だった。

頭と足を切り落とされたように感じるこの痛みは、どこに持って行けばいいのだろう?



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