「0組の机にポエム書いてるの私です。」第13話
シンデレラみたい。
清水坂を駆け下りていく央の後ろ姿を、悠日は呆然と眺めていた。お城から去っていくシンデレラを見送る王子様って、こんな気持ちなのかな。追いかけたいけど、追いかけてもどうにもならないことはわかっていて、黙って見送るしかない――……みたいな。――って、シンデレラは王子様にキレて帰っていったんじゃないか。
「悠日のバカ! アホ! ドジ!!」
悠日に罵声を飛ばして、郁が横を通り過ぎていく。木村や横山も、悠日の元へたどり着いていた。二人は状況から悠日がフラれたことを察したのか、何も言わなかった。央と郁を除いた悠日たち一行は、清水坂を下りた先にある停留所からバスに乗りこみ、気まずい空気を漂わせながら旅館へ戻った。
修学旅行最終日は、クラス毎に体験学習を行う。2年3組はいくつかあるプランから多数決で、午前中は保津川下り、午後は生八つ橋づくりを選んでいた。
しかし、悠日には保津川を下った記憶がない。たしかにみんなと船に乗ったし、水辺の寒さも清らかな空気も感じたのだけれど。船頭さんが川から望む景色についてあれやこれやと説明してくれたのに、昨日のことばかり蘇ってきて、何一つ頭に入ってこなかった。
悠日は盛大な溜息を吐きながら、八つ橋の生地をめん棒で伸ばしていた。央への告白がうまくいっていたら、パーフェクトな修学旅行になっていただろうに。やっぱり、『恋占いおみくじ』は結んできたほうがよかったのだろうか。
あーあ。俺のつくった八つ橋、央ちゃんに食べてもらいたかったのにな――……。
央のテーブルのほうをチラ見する。央は郁や茗たちときゃっきゃと笑いながら、生地の上に粒あんを乗せていた。まるで何もなかったかのような光景に、つい腹が立ってしまう。
好きだって気持ちを、どうして本人に否定されなきゃいけないんだろう。しかも、「悠日くんは私のことなんか好きじゃない!」という言葉が元恋人のあの台詞と絶妙に被っていて、ボディーブローのようにじわじわとダメージを与えてくれる。
元恋人のときは、グループの関係を維持したかったから「好き」ということにして付き合ったところもある。でも、今は違う。それに、進路のことを考えたくないから央に「好き」と言ったわけでもないのだ。正直、フラれるなら、「まだ夏目先生のことが好きだから」という理由以外、ありえないと思っていた。まさか全然違う方向でフラれるとは。まったく予想していなかった。
聞こえが悪いけれど、勝算があった。――……0組の詩が変わったから。3学期に新作として書かれたものは、これまでとどこかニュアンスが変わっていた。
切なく苦しい失恋の詩から、かつての思い人に感謝するようなような、前向きな詩が多くなっていた。夏目先生への恋に決着をつけられたんだと確信した。だから、「次の恋の相手は俺がいい」と思っていたのに。直子だってそう言っていたじゃないか。
悠日は白い八つ橋の生地に目を落とした。央に「好き」という気持ちが届かなくて、悔しい。金沢駅のホームで「悔しい」と叫んでいた央の感情が、今なら手に取るようにわかる。
もっと、央にどこが好きなのかちゃんと伝えればよかった。央のことを支えたい、同じ大学に行きたいという気持ちは、もちろん嘘じゃない。央の詩が好きで、夢を持っているところにも憧れていて、気の強いところも、深く人を愛せるところも、全部好き。だから、これからも一緒にいたいって。そう言えたら、信じてもらえたかもしれないのに。少なくとも、泣かせたりしたいわけじゃなかった。こぼれ落ちた涙が、悠日の胸にグッサリと突き刺さる。
――……というか、親や鮫島にすら進路のことを「真面目に考えろ」だなんて言われたことがないのに、どうして央にキレられなきゃいけないんだろう。めん棒を持つ悠日の手に、怒りのせいか力とスピードが加わり始めた。
でも、なんか途中で俺のこと褒めてなかった? 気のせい? いや、思いやりがあるとかカッコイイとかなんとか言ってたよね? それは普通にうれしい。うれしいけど。え、でも、なんで、なんであんなに褒めてくれるのにダメなの?! それって俺のこと好きってことなんじゃないの?! どういうこと?! 意味わからないんですけど?!
「悠日、皮、めっちゃ薄くなってる」
「あ……」
めん棒を転がしすぎたせいで、八つ橋の皮は倍以上に大きく、薄く伸びてしまっていた。完成した悠日の八つ橋は、おいしくもなければまずくもなかった。
修学旅行を終えた悠日たちを待っていたのは、合唱コンクールだった。合唱コンクールは3月の第2週に行われ、1年生と2年生のみが参加する。このクラスでの最後のイベントであり、2年生にとっては最後の合唱コンクールだった。
2年3組の選曲は、『時の旅人』とMr.Childrenの『Sign』。指揮は木村が、伴奏は茗が担当する。修学旅行のあと、木村は茗に告白していた。郁の話によると、茗は木村のことなんてこれっぽっちも好きじゃなかったらしいが、恋する若者たちの姿を見て、自分にそういう相手がいてもいいかと付き合うことに決めたらしい。たしか、木村の『恋占いおみくじ』は大吉だった。あのおみくじ、もしかして当たるんだろうか?
あれから、悠日と央の関係は膠着したままだった。目も合わさなければ会話をすることもない。0組の詩の秘密を共有する前は、こんな感じだったっけ。クラスにいても、その存在すら視界に入っていなかった。そもそも、あの秘密さえ知らなければ、こんなに仲よくなることもなかっただろう。それが元通りになっただけだ。それなのに、心にぽっかり穴があいてしまったように虚しい。Instagramの『桂冠高校2年0組』も、すっかり投稿が途絶えてしまっていた。
「今日のホームルームこれで終わりなー。悠日は部活の前に職員室寄れー」
合唱コンクールを目前に控えたある日のホームルームで、悠日は帰り際に鮫島に呼び出された。ホームルームは課題曲の練習だった。前半30分はパート毎に分かれて行い、後半30分は全体で合わせて練習をする。思ったよりも木村と茗がスパルタで、喉がカラカラだった。二人は「このクラスで最後のイベントなんだよ! 悔いのないように!!」と何度も言っていた。
わざわざ職員室で話すってことは、いい話じゃないんだろうな。
悠日はズボンのポケットに両手を突っこみながら、気だるげに廊下を歩いた。日差しの温もりから春を感じるようになってきたけれど、暖房のない廊下はヒンヤリと冷たい。熱唱して火照った身体を冷ますにはちょうどよかった。
コーヒーと紙の匂いで充満した職員室に入る。2年の担任は真ん中のほうのデスクだ。鮫島はサメのイラストが描れているマグカップでコーヒーを飲みながら、一服していた。
「きたよ、サメちゃん」
声をかけると、鮫島は「おー」と気の抜けた返事をした。マグカップをデスクに置き、悠日に向き直る。
「お前、来年のクラスどうする?」
直球で本題をぶつけられた。1月の三者面談のとき、悠日は自分の進路に答えを出せなかった。わざわざ仕事を休んで来てくれた父には申し訳なかったが、その場では何も進展がなく、世間話で予定の30分が過ぎた。あのとき、鮫島は「3月の頭くらいまでは待ちますんで」と言ってくれた。3年生のクラスをどうするかは、保留になったままだった。
「……どこでもいい」
「あのなあ」
悠日の返答に、鮫島は顔をしかめた。清水坂で央に言われたことが脳裏をよぎる。悠日は、いまだに自分の進路と向き合えていなかった。もちろん頭の片隅にはいつもその問題があったけれど、極力目を向けないように、部活や合唱コンクールの練習に打ちこんでいた。正直に言えば、央のことも意識的に避けていた。彼女を見ると、フラれたことはもちろんだけど、進路のことまで思い出してしまう。まあ、避けているのはお互い様かもしれないけれど。
「暫定だし、そんなにむずかしく考えなくていい。クラスが決まっても、絶対にその進路に行かなくちゃいけないわけじゃないから」
珍しく鮫島が優しげな言葉をかけてくれる。同情されているのか、それとも早く決めてほしいからそう言っているだけなのか。色黒で無精ヒゲを生やしたポーカーフェイスからはわからなかった。
「そんなこと言ったって……」
「それなら勝手にどっかのクラスにぶちこむからな。授業ついていけなくても泣くなよ」
「……それでいい」
「いや冗談だって。悠日の成績なら――」
「もうそれでいい! ごめんサメちゃん! 迷惑かけて!」
「あ! こら待て! まだ話終わってないだろ!」
悠日は勢いよく頭を下げ、職員室から飛び出して行った。しばらく廊下を走り、教室のほうへ戻ってくるとスピードをゆるめる。タン、タン、タンと着地する振動が、上履きを通して脹脛に伝わってきた。ぴたりと足を止める。大きく息を吐き出すのと同時に、その場にしゃがみこんだ。
「はーるひ! みーつけたっ!」
頭上から声が降ってきた。顔を上げる。
「……なんだ、郁か」
白いマフラーを巻いた郁が悠日を見下ろしていた。悠日のつまらなそうな声に、彼女は「失礼な」と唇を尖らせる。郁も悠日に合わせてしゃがみこんだ。
「はい、これ」
彼女が差し出したのは、A5サイズのロルバーンのノートだった。爽やかな水色の表紙に、ネイビーのゴムバンド。首を傾げながら受け取ると、郁が「開けてみて」と目で訴えてきた。ゴムバンドを外し、中を開く。
0組のポエムと同じ筆跡だ。はやる気持ちを押さえて、次のページをめくる。
()のツッコミがおもしろくて、クスっと笑ってしまった。ページをめくる。
大学や専門学校の名前が列記されているページがしばらく続いた。そのあとには、各大学や専門学校について校風や立地、取得できる資格などがまとまっている。キレイに書かれているページもあれば、一度書いたものをボールペンでぐちゃぐちゃと塗りつぶしているところもあった。試行錯誤している様子が伝わってくる。
「健気だよねー、央」
「……え?」
郁は、呆れつつもどこか愛おしそうだった。
「これ、修学旅行の前から作ってたんだよ。『悠日くんにはいっぱい助けてもらったから、今度は私が力になりたいの』って言ってさ。勇気が出なくて、なかなか渡せなかったみたいだけど」
心臓がぎゅうっと締めつけられた。めちゃめちゃうれしいけど、めちゃめちゃ情けない。相反する気持ちが同時に押し寄せてくる。央が悠日以上に悠日のことを思ってくれていたことに、感動で胸がいっぱいになる。
ああ、清水坂の参道で泣くように叫んだ央の気持ちが、ようやく腑に落ちた。悠日のこれからのことや、悠日自身の可能性を真剣に考えてくれていたのに、「同じ大学に行きたい」だなんて言われたら、怒りたくもなる。告白を信じてもらえなくても仕方ない。
悠日はロルバーンのノートを胸に抱え、勢いよく立ち上がった。
「俺、今から央ちゃんのところ行っ」
「行くなバカタレ」
郁もすかさず立ち上がり、お笑い芸人のツッコミがごとく、悠日の頭を引っぱたいた。
「今、央のところに行ったって、何も考えてないんだからこの前と一緒でしょ! まずは考える! 自分とじっくり向き合いなさい! もう逃げるな!!」
「わかったか!」と、郁は背伸びをして悠日にデコピンをした。子どもの頃から、郁と遊ぶときのルールは、「勝ったほうが負けたほうにデコピン」だった。成長した郁の本気のデコピンは、かなり痛い。でも、悠日の目を覚さますには十分な痛みだった。おでこをさすりながら、感謝の念がこみ上げてくるのを感じる。生まれてからずっと一緒にいるけれど、こんなに感謝したことはない。
「ありがとう、郁」
「まったく、手のかかる弟ですこと」
郁は、「文芸部に行くから部活よろしくね」と美術室のほうへ去っていった。文芸部は美術室で活動しているらしい。央も参加しているのだろうか。悠日はスクールバッグを置きっぱなしにしている教室に戻った。
鞄を持って3組を出る。さあ、急いで部活に行かなくちゃ。あんまり遅いと監督にどやされる。2組、1組と通り過ぎる。何気なく、0組の前で足を止めた。黄色とオレンジの混ざった夕陽が、チカッと目に差しこんできて眩しい。机の詩を消している央を目撃したときも、こんなふうに夕陽の眩しい日だったっけ。人気のない0組にそっと足を踏み入れた。
窓際、前から2列目の席に腰を下ろす。鞄をドサッと床に落とした。机には、うっすらと詩が残っている。
悠日はロルバーンのノートをパラパラとめくった。部活に行かなくちゃいけないのはわかっているけれど、もう少し、央がつくってくれたこのノートを眺めていたい。ノートは「頃合いを見て悠日から央に返すように」と郁に言われていた。央の隙を突いて鞄から抜き取ってきたらしい。まったく、恐ろしいヤツだ。
【悠日くんのいいところ】を何度も読み返してしまう。優しいとかコミュニケーション能力があるとか励まし上手とかなんて、自分では気づきもしなかった。央は清水坂の参道でも「可能性がある」と言ってくれたけれど、そんなふうに考えたこともない。自分のことを知らなければ、そうは思えないだろう。全然、自分自身と向き合えていなかった。進路とは、自分と向き合うことでしか見えてこないものなのかもしれない。
一生懸命、考えてくれたんだろうな。
央の字を指でなぞる。指で触れているだけなのに、どことなく温もりを感じた。
ブブっと、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが震える。取り出して確認すると、Instagramのフォロー通知だった。誰かが『桂冠高校2年0組』をフォローしてくれたらしい。更新が止まっていても見つけてくれる人がいるなんて、ありがたい。フォロワーは、もう少しで400人に到達するところだった。
『桂冠高校2年0組』のアカウントを開く。学校の風景とポエムが、正方形のマスに行儀よく収まっていた。客観的に見ても、センスよくできているんじゃないだろうか。夏目先生にも褒めてもらえて、うれしかったな――……。
唐突に、金沢で央と夏目先生が進路の話をしていたことを思い出した。フォローリストから夏目先生のアカウントに飛ぶ。――……あった! プロフィールには酒造の電話番号が記載されていた。リンクになっている電話番号をタップする。すぐに通話アプリが起動して、電話がかかった。LINEやSNSを使ってやりとりをするほうが多いから、久方ぶりの電話である。緊張する。それも、一度しか会ったことのない人にかけるだなんて。機械的な呼び出し音が、悠日の鼓動をドクンドクンと早めた。
「もしもし、夏目屋です」
3コール目で電話がつながった。明るい女性の声がする。容子さんだろうか。
「あの、浅海 悠日です。央ちゃんの友達の」
「浅海くん! 久しぶり! 妻の容子です。夏目先生に何か用かな?」
「はい! あの、もしお話しできたら」
「わかった! 通話代かかっちゃうから、こっちからこの番号に折り返すね!」
電話が切れた。金沢でたった数時間会っただけの悠日のことを覚えてくれていて、胸がホクホクする。通話代を気にして折り返してくれるなんて、容子さんはよく気の回る人だ。金沢でも、突然やってきた悠日たちのために手料理を振舞ってくれたことが思い起こされる。
ブーッとスマートフォンが震えた。折り返しの電話だ。ドキドキしながら、悠日は通話ボタンを押した。
「あ、浅海です」
「浅海くん! 久しぶり! 夏目です!」
伸びやかな低い声。電話口からでも大人の色気を感じさせられてしまう。悠日は、少し高めの自分の声にコンプレックスを抱いているせいか、夏目先生みたいな声だったらよかったのに、と改めて思った。
「すみません、いきなり電話なんかしちゃって……」
「ううん、うれしいよ。どうした? 中原とケンカでもした?」
「うっ……」
「まじか! あっはっはっは!」
「ちょっと! 真剣に悩んでるんだから笑わないでくださいよ!」
「悪い悪い。君たち、本当に仲がいいんだな」
仲がよかったらケンカなんかしないと思うんだけど。電話越しには伝わらないのだが、ムスッとしてしまう。
夏目先生と会ってから、もう二ヶ月が経っている。あの一度きりしか会ったことがないのに、どうしてケンカしているとわかったんだろう。優れた洞察力。やっぱり、この人は教師に向いていたのかもしれない。
「……今、悩んでることがあって」
悠日はためらいながらも切り出した。「おぉ」と夏目先生が短く相づちを打つ。
「俺、将来やりたいこととか何もないんですよ。行きたい大学もなくて」
「うんうん」
「それなのに、3年のクラス決めに関わるから、希望を出さなくちゃいけないんです。で、真面目に考えないから、央ちゃんに怒られちゃって」
「そうなんだ」
夏目先生の明瞭な相づちが聞こえてくる。顔が見えないぶん、気を遣ってくれているのだろう。彼がしっかりと耳を傾けてくれているのだとわかって、緊張が和らいだ。央も、夏目先生と話をしているとき、こんなふうに安堵しながら心を預けていたのだろうか。
「やりたいことって、どうしたら見つかるんですかね……」
「うーん、それはむずかしい質問だなぁ」
悠日の問いに、夏目先生は唸った。急に申し訳なさが募る。勢いで電話をして、こんな面倒くさい質問はよくなかった。第一、この人は「央の先生」であって「悠日の先生」ではないのだ。
「内緒にしてほしいんだけど」
夏目先生は言い出しにくそうに前置きした。
「俺ね、別に教師になりたかったんじゃないんだよね」
「えっ、そうなんですか」
勝手に、夏目先生は子どもの頃から教師を目指していたに違いないと決めつけていた。ちょっと拍子抜けする。でも、央や直子の話を聞く限り、とても熱意のある教師だったはずだ。包容力に洞察力、いじめを解決する力。それに、央の詩を何年経っても覚えていた。憧れをもって教師になったんじゃなかったとしても、天職には違いないだろう。
「そうそう。長男だし、酒造を継がなきゃいけないってことは生まれながらに決まってて。でも、若気の至りっていうのかなあ、『親の決めた道に進みたくない』って思っていた時期があったんだよね。他にやりたいことがあったわけじゃないんだけど」
「中原には言うなよ」と、夏目先生。「内緒にしてほしい」は、央に対してだったのか。悠日はうなずいた。
「俺さあ、世の中にどんな職業があるのか全然知らなくて。酒造か学校の先生かしか思い浮かばなかったんだよね。学生のうちって、接する大人が親か先生だけじゃん? だから、手っ取り早く『教師でいい!』って決めて。地元からも離れたかったし、教職の取れる東京の大学受けて、神奈川で中学校の先生になった」
夏目先生はどこか自虐的な話しぶりだった。「内緒にしてほしい」と言っていた意味が少しわかる。こんな打算的な考えで教師になったと聞いたら、央はショックを受けるかもしれない。央にとって、彼はこれから先もずっと「憧れの先生」なのだ。夏目先生も、教え子の前では「理想の先生」で有り続けたいのだろう。
だからこそ、悠日には本音で話してくれたことが、特別なことのように感じられた。夏目先生が電話に出たときも、「先生」というよりは「近所のお兄ちゃん」のようなフランクさがあった。教師と生徒ではない「対等な関係」で接してくれていることが、悠日にはちょっぴり誇らしい。
「浅海くんは、中原の近くにいるから、余計に『何かやりたいことを見つけなきゃ!』って思っちゃうのかもしれないね。でも、俺の教師人生で感じたことは、明確にやりたいことのある子のほうが少ない……ってことかな」
夏目先生の言う通りかもしれない。はっきりとやりたいことが言える子なんて、クラスでは央くらいだろう。
「でも、時間は進む。卒業までに進路を決めなくちゃいけない。だからみんな、夢とかやりたいことがなくても、なんとなく興味のありそうなことを『これだ!』って決めて進路に選んでいくんだよ。昔の俺みたいにね」
「夢のないことを言うけどさ」と、夏目先生は付け足した。
木村も横山も何がやりたいなんてことは、これまで一度も口にしたことがなかった。それなのに、よく進路希望調査用紙を提出できたものだ。内心彼らのこともうらめしく思っていた。でも、夏目先生の言うように、二人ともとりあえず興味のありそうなことを書いて提出しただけなのかもしれない。
「今から言うことは、浅海くんの学校の方針に背いてしまうかもしれないんだけど……」
夏目先生が続ける。大切なことを教えてもらえる予感がして、悠日は姿勢を正した。
「あと1年あるじゃん。人生をかけてやりたいことを高校生のうちに見つけてるほうが奇跡だから。まだ17年しか生きてないんだし。焦らなくてもいい。
今は、視野を広くもって――って言うとむずかしいかもしれないけど、いろんなことに目を向けて、考えてみたらどうかな。アンテナを立てて物事を見てみたら、『おもしろそう』『やってみたい』『できるかも』と思えることと、運命的な出会いを果たすかもしれない。
大丈夫。浅海くんみたいに思いやりのある優しい子は、きっとうまくいくよ。自信をもって」
心地よく響く重低音の声で「大丈夫」と言われたら、ホッとして涙腺がゆるんでしまった。将来のことを考えると冷え切ってしまう心が、温かく溶けていく。央が夏目先生のことを「好きにならないほうが無理」と言っていたけれど、本当に無理だなと思った。「思いやりのある優しい子」という表現が央と被っているのにも、胸を熱くさせられる。
悠日はロルバーンのノートを閉じて夕陽に掲げた。穏やかな優しい光が、ノートをキラキラと包みこんでいる。自然と口角が上がった。
「先生、ありがとうございます。俺、うまくいきそうな気がする!」
「あっはっは。そりゃよかった。浅海くんって、ちょっと単純なところもいいよね」
「……けなしてます?」
「褒めてるんだよ」
「……じゃあよかった」
(つづく)
↓第14話(最終話)
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