私は「ふるい」にかけられたのか?
4年前、noteを書き始めた。
6年前のサービス開始直後、一度noteに登録したものの、仕事が忙しくて継続困難と判断し、すぐにアカウントを削除してしまった。その後、2016年1月23日に再登録する。それが、今日も続くこのアカウントだ。
4年前に仲良くしていたクリエイターさんは、いつの間にかほとんど姿を消してしまった。アカウントを削除してしまった人もいれば、残しているけれど、めっきり顔を出さなくなった人も多い。
私の記憶によれば、当時はまだnoteとTwitterは連携されていなかった。「noteをやめても、Twitterならやっているかも」とインターネットの広大な海を彷徨う。でも、何一つ手がかりは掴めなかった。もう更新されていないその人たちのアカウントのフォローを、外すことができない。
一方で、4年前からずっと活躍している人もいる。記事をアップする度に「note編集部のおすすめ」にピックアップされるから、フォローの有無に関わらずその人について詳しくなった。「お子さん、こんなに大きくなったんだな」とか「新しい事業を始められたんだ」とか。進捗が見られるのも楽しかったし、着実に前へ進んでいくその姿に刺激を受けた。
あの頃からnoteを続けている人は、みんな「何者」かになっている気がする。でも、私は? 性懲りもなく書き続けているけれど、「何者」にもなっていない。なれていない。
もし、クリエイターを選別する「ふるい」のようなものが存在するなら、私は落っこちそうな所にいるのかもしれない。
その「ふるい」はやたら巨大で、やたら網目が広い。優秀なクリエイターは、綱渡りのようにその網目を器用に歩き、決して落ちることはない。しっかりと鍛えられた脚で優雅に歩くその姿は、サーカスで芸を見させられているかのように美しい。
しかし、その網目を歩く筋力のない人は、残念ながらあっさりと落ちてしまう。遙か遠くの足下には、夢にやぶれた人が山のように見える。振り落とされまいとみんな必死だ。
器用に網目を歩けない私は、死にものぐるいで網目に捕まって――……いや、もうとっくに落っこちてしまっているのかもしれない。
書き続けていくのが、しんどい。大学で文芸創作の勉強をしていた時、片手で数えられるくらいしか教授やゼミ生に「良し」とされたことがなかった。あの頃、「才能」という不確かなものが自分に備わっていないことを知った。
それでも、どうにかこうにか、やっぱり書いていたくて、書いていた方が良いような気がして、上手くもなければ下手でもない中途半端な文章をポタポタと産み落としてきてしまった。
創作活動をやめていく人も、あっという間に私を追い越してスターダムにのし上がっていく人も、たくさん見た。
純粋に才能だけで勝負している人もいれば、姑息な手段を使う人もいた。才能で脚光を浴びている人を見れば「私には無理」と頭を抱えたけれど、どんな汚い方法を使ってでも成り上がる人に対しては、「私は絶対にそんなことしない」と怒りにも似た闘志がメラメラと燃えた。
姑息な手段だって、良いように言い換えればそれは「戦略的な方法」なんだろう。「戦略的(笑)」な人たちを見て、フェアじゃないと思ってしまう。悔しい。表現の世界は、表現だけで評価されると思っていたのに、そうじゃなかった。絶望した。
才能もないのに、愚直に正攻法でしかやりたくないなんて笑える。こんな私が、日の目を浴びることはないんだろう。そろそろ現実を直視しなければ。
筆を折ろうとした時に限って、読んでくれた人からのメッセージがぽこぽこ届く。過去に書いたnoteをインターネットの海の中から掬い上げてくれたらしい。noteのSEOが笑っちゃうくらい効き過ぎて困る。
「文章に引き込まれて、気付いたら最後の行だった」
「このnoteを読んで勇気づけられました」
「最後の一文に号泣してしまった」
「書いてくれてありがとうございます」
遠い昔に書いた文章が、年月を経て誰かの心に届くことがあるらしい。思いがけないメッセージに、強く胸を揺さぶられる。だって私は、もう「ふるい」から落っこちたと思っていたから。
あの巨大な「ふるい」を誰がふるっているのかは知らない。もし本当に「ふるい」があって、誰かがふるっているのならば、それは神様のような人なのだろうか。神よ、いるかいないか知らないけれど、「ふるい」から落としたのならそれなりの運命にしてくれ。頼むよ。こんなメッセージが届いたら、うれしくてうれしくて勘違いしてしまう。
「ふるい」から落ちた私なんて、誰も興味をもってくれないだろう。そう思っていたけれど、実はそうでもないのかもしれない。才能がなくて、戦略的な行動が取れない、「ふるい」から落ちた私でも、どこからともなく読者さんからお手紙が届くのだから。
「才能がない」ことを知った大学生の私が、そのお手紙を読んだらどう思うだろう。「戦略的」になれず表現の世界に絶望した私が、そのお手紙を読んだらどう思うだろう。あの頃とは違う世界が、此処にきてようやく見えるようになったのかもしれない。
これまで、何度も「もう無理」だと思った。もう書き続けられないと思った。でも、そこを「あともうちょっとだけ頑張ろう」と自分を奮い立たせてここまできた。才能もないし、戦略的にもなれないから、人より何倍も時間がかかってしまったけれど。
もし、今、「“ふるい”から落とされたのかもしれない」と落ち込んでいる人がいるならば、その人たちのためにこれからも書きたいと思う。
才能がなくても、戦略的になれなくても、どこまでいけるか。自分自身を試したい。その姿を見て、「ふるい」から落ちても「ここまでできるんだ」って、誰かの希望になれたら。
私のやってきたことにも、少しは「意味」があったでしょう?
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