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「0組の机にポエム書いてるの私です。」第10話

「ねぇ、央ちゃん。進路希望調査用紙、なんて書いた?」

 窓際の列の前から3番目の机で、ガリガリと日直日誌を書いていた央の手が止まった。ハッと顔を上げると、いつの間にか前の席に悠日が座っている。窓に背をもたれながら、右手に持った進路希望調査用紙をひらひらと空中に漂わせていた。

 放課後の教室は、央と悠日の二人きりだった。暖房がついている教室はぬくぬくと温かい。窓の向こうの空には、重たい曇が立ちこめている。今朝のニュースによると、夜には雨が降り、深夜には雪に変わるそうだ。

「……それ、まだ出してなかったの?」

 央は目をパチクリさせて尋ねる。進路希望調査用紙は、2学期の終業式に配られ、提出期限は3学期の始業式だった。鮫島は「冬休みの間に保護者と話し合い、始業式の日に必ず提出しろ」と、面倒くさそうに説明していた。3学期が始まって一週間。期限はとうに過ぎている。悠日の進路希望調査用紙を盗み見ると、名前以外は空欄だった。

「うん。書けなくてさあ。サメちゃんが三者面談の前に出せばいいって延ばしてくれたの。央ちゃんは、もう出した?」
「とっくにね。三者面談も昨日終わったし」
「そうなの?! なんて言われた?!」
「何って『このまま頑張りなさい』としか」

「日誌が進まないからどっか行って」と付け足すが、悠日は「う~~う~~」と唸ったままそこを動こうとしなかった。日誌は、今日の2時間目までのことしか書けていなかった。

 央の三者面談には、両親ではなく直子が来てくれた。直子の家で生活している間は、直子が保護者ということになっている。

「いい? 央、進路は自分で決めるのよ。将来何をしたいか、どんな大人になりたいか。受験までにちゃんと考えておくように。もちろん、大学じゃなくて、専門学校でも就職でも構わないわ。自分に制限をかけず自由に考えてみて」

 一緒に暮らすようになってすぐ、直子は央にそう言った。両親から「偏差値の高い有名な大学に進学し、将来は食いっぱぐれない仕事(=医者)につきなさい」と指導を受けてきた央にとって、直子の考え方は新しかった。

 進路希望調査用紙には、自分で調べた大学の名前を3つ書いた。文章表現のゼミのある大学を第一志望に、第二志望は詩や短歌の研究が盛んに行われている大学、第三志望は、詩人としても活躍中の教授が在籍している大学だ。すべて都内にある大学で、文学部。この時代、詩人として食っていくにはむずかしそうだけれど、大学に進学できるなら好きなことを勉強したい。教養を身につけて、表現の幅を広げられたらいいな――……それが、央の考え出した答えだった。

 直子は、央の書いた進路希望調査用紙を見ると、「いいんじゃない?」と真っ赤な唇の端を上げて一言そう言った。希望の大学に進学できるかどうかは今後の頑張り次第ではあるが、直子が受け入れてくれたことがまずうれしかった。

「来年さ、希望進路でクラスわかれちゃうじゃん。俺、央ちゃんと同じクラスになりたい。てか、央ちゃんと同じ大学に行きたいなー」

 何を言っとんじゃ。

 悠日のサラッとした口ぶりに、いよいよ呆れかえった。

 桂冠高校は、3年生になると国立大、私大理系、私大文系、美大・音大・体育大の専門大学、短大・専門学校と、希望進路ごとにクラスを編成している。そのため、2年生の3学期の時点でざっくりとした希望を決めておかなくてはならないのだ。

 央の場合、三者面談で「私大文系クラス」に入ると鮫島と合意がとれている。鮫島は、央の進路希望調査用紙を見て「今の成績を落とさなければ合格圏内だろう」と推測した。しかし、「もう少し上の大学を目指さないともったいないのではないか」などと、教師として最もらしいことも述べてきた。

 鮫島の言う「もう少し上の大学」を目指す場合は、「国立大クラス」になる。悠日は、央が「国立大クラス」になる可能性があるとにらんで尋ねてきたのだろうか。「国立は目指してないよ」と教えてあげるのは簡単だけれど、口をつぐむ。同じ大学を目指すことに関しても、どうにもそれが悠日のためになるとは思えなかった。

「悠日くんは、将来やりたいこととかないの?」
「……ないよ、そんなの」

 悠日の声が若干沈んだような気がした。いつも底抜けに明るいから、少しでも声が陰ったり、落ちこんだりしているとわかりやすい。悠日が重々しい空気を放ちながら登校した日は、決まって前日の部活の試合でボロ負けしている。央は、に『くまのプーさん』が描かれたシャープペンシルを一旦机の上に置いた。

「バレーボールは? バレーの強い大学とかどう?」
「才能のある子は、高校に進学する時点で強豪校からスポーツ推薦もらってんだよ。うちみたいな都大会敗退レベルじゃプロにはなれません」
「……そうなんだ」

 浅はかなことを言ってしまったと反省する。悠日の試合を見に行ったとき、十分に活躍しているように感じたのだけれど。プロの世界はもっと厳しいらしい。

 世の子どもたちは、サッカー選手になりたいだとか野球選手になりたいだとか、将来の夢を語る。けれど、スポーツ選手になる夢を叶えられるのは、ほんの一握りなのだ。夢をあきらめる瞬間って、将来の進路を考え出す「この瞬間」なのかもしれない。

「じゃあ、バレーボールのコーチとかは?」
「央ちゃん、俺のことバレーだけでしか見てなくない?」
「……ごめん」

 悠日の口調はいまだかつてなく冷たかった。彼の言う通りなので、素直にあやまる。たしかに、ここまでバレーボールでしか悠日の進路を考えていなかった。それ以外にも山ほど選択肢があるはずだ。考えを改めよう。手持ちぶさたになって、もう一度シャープペンシルを握る。柔らかいグリップをふにふにしながら考えた。

 ――……あれ?
 悠日くんの好きなものって何だろう?
 バレーボール以外に得意なことって、何かあったっけ?

 央は首を傾げた。もしかしたら全然、悠日ことをわかっていなかったのかもしれない。「0組の机にポエムを書いている」という秘密を共有してから、なんだかんだいって多くの時間を一緒に過ごしてきたはずなのに。どうしよう、何も思いつかない。悠日のほうは、央のことをほとんど知っているじゃないか。しかも、知られたくない過去のあれやこれやも。それなのに、どうして私は悠日くんのことを何も知らないんだろう。無意識に唇を噛みしめる。

「いいよなあ、央ちゃんにはやりたいことがあって。俺なんて、今の時点で手詰まりなのに」

 悠日が央の「やりたいこと」を知っていることに驚いた。今まで彼と進路の話なんてしたことがなかったはずだけれど、金沢で夏目先生とその話題になったときに、横で聞いていたのだろう。悠日の好きなことさえわからない罪悪感のせいか、何も悪いことをしていないのに咎められているような気分になる。心が、水墨を垂らしたかのようにじわじわと濁っていった。

 悠日は溜息を吐きながら、膝の上の進路希望調査用紙に目を落とした。触りたくなるようなふわっとしたミルクティー色の髪、目を伏せるとより際立つ長い睫、なめらかな白い肌。テンションの低い悠日には調子が狂うけれど、憂い顔の彼もそれはそれで絵になる。落ちこんでいる彼を目の前にそんなことを思ってしまう自分は、残酷なのかもしれない。

「やりたいことや勉強したいことがない」という状況を、悠日は「手詰まり」と表現しているのだろうか。でも、世の中には様々な学問や職業がある。悠日がまだ気づいていないだけで、きっとどこかにピンとくるものがあるはずだ。何て言っていいかわからないけど、とにかく考えよう。しかし、闇雲に案を出して、先ほどのように気分を害されても困る。央は、本人から直接ヒントを得ることにした。

「ねぇ、他に好きなことないの? バレーボール以外でさ――」
「央ちゃん」
「え?」

「好きだよ、央ちゃんのこと」

 悠日の真剣な眼差しが、央の瞳の中心を矢のように射貫いた。いつものあざとかわいい声じゃない。男の人のような低いトーン。いつになく本気な顔に、央の心臓がドキッと跳ね上がった。

「ちょ……ちょっと、真面目に考えてるんだからふざけないでよ」

 恥ずかしくなって視線をそらす。動揺が伝わらないように日直日誌に目を向けた。ええと、どこまで書いたんだけっけ。目が泳ぐ。すると悠日は、

「ふざけてないよ」

 と、字を書こうとする央の右手を掴んだ。ビクッとして顔を上げる。依然として悠日は、熱っぽい視線を央に向けていた。握りの甘かったシャープペンシルが指から零れ落ちる。

「は、はなして」
「はなさない」
「わっ」

 悠日が手を滑らせて、央の手首をグイッと引っ張った。身体が前のめりになる。悠日の端正な顔がぐっと近づいた。陰りを帯びた薄茶色の瞳は色気があって、普段の悠日とはまるで別人のようだった。

「俺のことけてない?」
「……そんなことない、けど」
「ホントに?」
「…………」
「傷つくなぁ」

 吐息がかかるほど距離が近くて、これ以上口を開けない。核心を突く問いにも、頭が真っ白になってしまった。黙りこんだ央のおとがいに、悠日がそっと触れる。さらに顔が近づいた。

「はっるひー♪ 三者面談終わったー!」

 唇が触れてしまうんじゃないかと思った瞬間、木村が清々しい様子でバンザイをしながら教室に乱入してきた。央と悠日は、何事もなかったかのようにパッと離れる。悠日は「おー」と立ち上がり、黒板側の入り口で下手な小躍りをしている木村の元にスタスタと歩いて行ってしまった。

「サメちゃん、なんだって?」
「『もっと勉強しなさい』だとよ」
「それしか言ってねーじゃん」
「な、横山と一緒ー」

 悠日は一度も央のほうを見ることなく、木村と教室から出て行った。央の首が、彼の姿を追いかけるようにゆっくりと動いてしまう。

 ……。……。……。
 びっっくりしたーー!
 何、今の?!
 一体、何が起こったの?!

 二人の会話が遠ざかって聞こえなくなってから、央は顔を両手で覆い、思いっきり足をジタバタと動かした。身体が熱い。きっと今、顔が真っ赤になっているに違いない。お願いだから、誰も教室に入ってこないでほしい。

 けていることに悠日が気づいているなんて、思いもしなかった。彼には、天然でちょっと抜けているところがある。だから、気づくはずがないと高を括っていた。自然にできているとも思っていた。でも、そうだ。ヤツには、時折核心を突くところがあるんだった。そこを、計算に入れていなかった。

 金沢に行ってから、央は悠日と顔を合わせられなくなっていた。悠日を見ると、金沢でのことが鮮明に蘇ってきて、居ても立っても居られなくなる。子どものように大泣きして、抱きついて。悠日に醜態を晒してしまった。夏目先生にもう一度失恋して、感情が高ぶっていたせいだろう。そうじゃなかったら、悠日に抱きついたりなんかしない。今まで悠日に示していた見栄やプライドのようなものは、金沢駅のホームで粉々に砕け散った。

 恥ずかしさのあまり、どう接していいのかわからなかった。通学時の電車で、同じ車両になろうものなら別の車両に移動していたし、廊下で彼が向こうから歩いてきたら、サッとロッカーの影に隠れるなどしていた。できるだけ、悠日と遭遇しないようにしていたのに。だから、さっきも、いつの間にか前の席に悠日が座っていて、本当は心臓が飛び出そうだった。本人にバレないように平静を装っていたつもりだけれど、どうだろうか。意外に勘が鋭い悠日のことだ。きっと、バレている。彼とじっくり話したのは、実に金沢以来だった。

 悠日は「傷つく」と言っていたけれど、本当は怒っているのかもしれない。そりゃあそうだろう。けられた上に、こうも悠日のことを全然わかっていないような会話をされたら。

 けていたのは、「恥ずかしい」という理由もあるけれど、それだけではない。悠日からの視線が、明らかに今までと変わった。これまでは、カラッとした明るく元気で爽やかなものだったのに、最近は、どこかしっとりした熱っぽい視線になった。陽気な性格は変わっていないのだが、ふとしたときに見せる表情が、やけに大人っぽくなって戸惑う。そういう顔をされると、どうしていいかわからなくなって、またつい視線をそらしてしまうのだ。

 さっきの表情だってそう。なんで急にあんな顔をするんだろう。
 もう、ドキドキするからやめてほしい。

 右の手首をそっと左の手のひらで包んだ。力強く掴まれたそこが、まだジンジンと熱を帯びていた。




「あ~~もうどうしたらいいんだろうっ!」

 央は困り果てて机に突っ伏した。机の上には、進路指導室から借りてきた分厚い本が開きっぱなしのまま散乱している。一緒にお昼ご飯を食べようと、央の机の周りに集結した郁と茗は、驚いて顔を見合わせた。

「央、三者面談終わったよね?」

 尋ねながら、茗が央のとなりの席に腰を下ろす。郁も不思議そうに首を傾げながら、央の前の席に座った。央の前・右どなりの席は野球部の生徒だ。彼らは廊下のオープンスペースで昼食を摂ることが多く、昼休みは不在にしている。

「私は終わったんだけど……」
「……私は? もしかして、悠日のこと?」

 言葉を詰まらせた央に、今度は郁が問いかける。当たっている。どうしてわかるんだろう。央は身体を起こして、ばつの悪そうに小さくうなずいた。

「えぇ?! 人の進路の心配してあげるとか、優しすぎない?!」

 茗は呆れながら、水色のギンガムチェックの袋から二段重ねの赤いお弁当箱を取り出した。央もスクールバッグの中からお弁当を取り出す。郁は購買でパンを買ってきていたようだ。

「そうなんだけどさあ……。でも、悠日くん、本当は参ってるんじゃないかと思うんだよね……」

 あの放課後のことを思い返す。何もかも、悠日らしくなかった。冷たい声、投げやりな態度、急に近づけてきた顔。阿呆とはいえ、比較的好青年の悠日からは、想像もつかない姿だった。彼によく思われているという驕りなのかもしれないけれど、央にまでそんな態度を取ることがまず意外だった。今までどんなときも、「央ちゃん!」と央にだけは明るく接してくれていた。もしかしたら、それができないくらい追い詰められているのかもしれない――……央はそう考えていた。

 続々と周囲が進路を決めている中で――本当の意味で進路が決まるのは受験が終わってからだけれど、とにかく“今の”希望を出している時点で――自分だけ「特にやりたいことがない」のは、悠日じゃなくても焦る。三者面談も迫っているとなれば、尚更だ。

 悠日をいたたまれなく感じてしまうのは、「上から目線」すぎやしないかとも思う。「やりたいことのある人間」が決して「上」ということではないのだけれど、悠日もおそらくそう考えている。だから、彼は央をうらやましがったのだ。

「でも、悠日が自分で向き合わないと意味ないでしょ」
「……そうだよね」

 焼きそばパンを頬張りながら、郁も指摘する。将来のことは、その人生を歩む本人が考えなければならない。直子から進路について助言を受けたときに、そう教わった。央も重々承知している。悠日の人生を他人が口出しするべきではないのだ。

 食の細い央のお弁当は一段で、左側に白米、右側に卵焼きとほうれん草のバター炒め、冷凍食品の唐揚げが入っている。卵焼きとほうれん草のバター炒めは、昨日の晩ご飯の残りものだ。夕飯は、仕事で帰りの遅い直子ではなく、央がつくることが多い。

「今まで悠日くんにはいっぱい助けてもらったし、感謝してる。だから、今度は私が悠日くんの力になりたいの。私にできることなんて何もないかもしれないけど……」

 央は黄色のお箸をぎゅっと握りしめた。

 詩を書くのをやめたときに、励ましてくれたこと。郁と仲良くなるきっかけをくれたこと。央の詩がもっと広まるように、Instagramを始めてくれたこと。そして、金沢まで一緒に夏目先生に会いに行ってくれたこと。

 これまで、何度も悠日に背中を押してもらった。たくさん悠日の力を借りたのに、自分は何もしてあげられていない。だから、せめて進路のことだけでも一緒に悩んであげられたら――……。

 進路指導室から、職業辞典や大学選びの本をごっそり借りてきた。休み時間や放課後に読み進めては、「この職業は悠日くんに向いてそう」だとか「この学科の勉強は悠日くんも楽しめそう」だとか、気づいたことを水色のロルバーンのノートにまとめている。

 それが悠日のためになるかと言われたらわからないし、何も役に立たないかもしれない。でも、今の自分にはこれくらいしかできることがない。書き留めたノートは、いつか悠日に渡そうと考えていた。

「悠日くんには、可能性があるじゃん。

 行動力があって、人を思いやることができて、コミュニケーション能力もあって。他にもできることがいっぱいあるはずなのに。

 何も考えずに私と同じ大学に行きたいだなんて、もったいなさすぎるよ」

 郁は焼きそばパンを頬張るのを、茗はミートボールを食べるのをやめて、央の話に耳を傾けてくれた。郁はふふっと困ったように笑った。

「それ、本人に言ってあげたらいいのに」
「え?」
「喜ぶよ、きっと」

 と、また焼きそばパンを頬張り始める。茗も「そんなこと央から言われたら逆に調子乗りそうだけどねー」と笑いながら、再びお弁当を食べ始めた。

「それよりさ、修学旅行! 自由時間どこまわるか考えよ!」

 郁はでかでかと『京都』と県名の書かれたガイドブックを机の上にバンッと置いた。央と茗は、「そうだった」とお弁当を片手にガイドブックを覗きこんだ。


(つづく)

↓第11話


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