狂愛のカナリア【短編小説】


 君は、こんなことをした動機を知りたいと言ったね。一言で言えば、僕が芸術家だからさ。山道に咲く菫草や、頂上に白い雪の積もる富士山が美しいのは、みんなが知っていることだけどね、芸術家は当たり前に美しいものを美しいと判断してはいけないのだよ。芸術家は、無慈悲で残酷な事象の中に美を見出すのさ。戦禍の中で慟哭する少女や、ギロチンで首を落とされた野心家の青年とか、僕たちはそんなものに芸術を見いだす。

 ああ、私も君がわかってくれるなんて思っていないよ。警察だかなんだが知らないが、社会の狗に、美なんて崇高なものがわかるはずないからね。とにかく、僕がしたことは、それと同じことなんだよ。


 わかるかい?
 あのカナリアを殺したのは、僕が芸術家だからさ。


 …………カナリア?

 そうそう、僕は内田翠(うちだみどり)のことをカナリアと呼んでいてね。彼女はうちの大学の声楽科の学生だった。定期発表会に招待された時に知り合ったんだよ。その発表会は、音楽学部の生徒の成果を披露するためのもので、各学科の実力のある学生しか立つことが出来ないんだ。優秀な学生だった彼女は、その舞台で歌っていたのさ。

 背が高い割に華奢な体付きをしていたけれど、力強く逞しい声がよく出てね。六百人は収容できる大ホールに響き渡るビブラートは、たいしたものだったよ。彼女の歌っていた歌が、とても神秘的な歌でね。脳や心を揺さぶるような歌だった。僕の思考を奪っていくようだったよ。いつの間にか感情がなくなってしまうような感じでね。気味が悪かったけれど、それは麻薬のように心地の良い、鳥が囀るような綺麗な歌だった。


 発表会が終わった後、声楽科の先生に彼女を紹介してもらったんだ。

「初めまして。音楽学部声楽科三年の内田翠です。本日はわざわざお越し頂いて、どうもありがとうございました」

 彼女が僕に最初に投げかけた言葉はこれだった。一言一句忘れることなく覚えているよ。目鼻立ちのはっきりした小さな顔。ブラックパールを埋め込んだような大きな黒瞳。雪のように透き通る白い肌に、ちょこんと乗る熟れた苺のような赤い唇。とても美しい、まるでお人形さんのように可愛らしい女性だった。明るくて気さくでいい子でね、初対面の僕にも分け隔てなく接してくれた。おっとりと上品で、しかも歌うように喋る子だったから、彼女の周りはいつも穏やかで、和やかな空気に包まれていたよ。


 彼女は、僕が美術学部の絵画科専任講師だと知ると、僕の絵を見たがった。だから、

「そんなに興味があるなら、アトリエに遊びにきなさい」

 と言ったんだ。そうしたら、彼女は本当に僕のアトリエに遊びに来てくれるようになったんだよ。社交辞令だと思っていたから、校内の隅にある僕のアトリエに来てくれた時はとても嬉しかった。彼女は声楽の練習の隙間を見つけては、よくアトリエに顔を出してくれた。僕が絵を描いているのを眺めたり、昨日のテレビの話やご飯の話、他愛もない話をしたりしたのさ。

 僕が絵を描いている時、彼女は決まって歌を口ずさんでいたんだ。それはあの発表会で歌っていた歌だったんだけど。危険な媚薬のようなあの歌が、僕はとても好きだった。彼女がその歌を歌ってくれた時に出来た作品は、全てとても素晴らしい作品に仕上がったよ。


 僕は彼女を被写体に、何度も彼女の絵を描いた。風景画専門だから、あまり人物画は描かないんだけどね、でも、彼女は特別だった。

 君、警察なんだったら、僕のマンションやアトリエに行って、僕が描いた彼女の絵を何枚か見たことがあるだろう。彼女は本当に綺麗だった。容姿が綺麗なのは当然だけれど、彼女を取り巻く空気すらも美しかった。生まれつき兼ね備えた魅力なのだろうね、僕は知らず知らずにその虜になっていたのさ。


 言うまでもなく、わかるだろうけど、僕は彼女が好きだったんだ。教師として、生徒を愛する気持ちじゃないよ。僕は一人の男として、一人の女性である彼女を愛していたんだ。彼女の姿形も、歌声も、柔らかな物腰も、その穏やかな雰囲気も何もかもが好きだったんだよ。愛していた。「先生、先生」と人懐っこく僕にかけよる様は、本当にあいくるしかった。可愛かったよ。


 だけど、ある日ね、彼女は言ったのさ。

「先生! なんて素敵な真っ赤な夕焼けの絵なのでしょう! 私、赤がとても好きなんです!」

 僕のアトリエで、あるお空の絵を指差してそう言ったんだ。絶望したよ。それは僕が描いた絵ではなく、あの忌々しいカラスが描いた絵だったからね。


 ——カラス?

 一ノ瀬透(いちのせとおる)のことだよ、君だって事情聴取で会っているはずだろう。あの色黒で、がっしりした体付きの男のことだ。あのカラスは僕の弟子のような存在だった。僕はまだ四十前半で、大学の中でも若い教師だったから、なかなか師事してくれる生徒なんていなかったんだけど、でも彼だけは慕ってくれた。だから僕も出来る限り、様々な技術を教えたのだけどね。

 彼はやけに上手に赤を作る子だった。君は芸術感覚に乏しいと思うから言っておくけど、赤でも色んな赤があるんだよ。濃い赤、薄い赤、深みのある赤、夕焼けの赤、林檎の赤、血液の赤……。彼はその赤のひとつひとつを表現するのがとてもとても上手かった。

 僕はあまり赤が上手に描けなくてね、赤にはいつも悩まされていたよ。彼女が見た赤い夕焼けの絵はね、僕もとても気に入っていたのさ。彼の赤を使った絵はどれも美しいのだけど、その真っ赤な夕焼けの絵は、群を抜いて美しかった。まるで写真で撮ったかのような色合いを魅せていて、本当に、敬服するような赤だった。


 ……君、何がおかしいんだい? そんなに僕が彼を誉めるのがおかしいのか? 僕はね、自分より格下の者でも、優れている所があったら素直に認める、懐の深い人間なのだよ、わかるかい?

 ……そうなんだ、此処なんだ。僕が不思議に思うのは此処なんだ。僕はね、こんなに心の広い男なのに、なぜかひどく気に入らなかったんだよ、カアリアが、あのカラスの絵を、好きだと、言ったのが。


 カナリアにね、僕よりもあのカラスのほうが優れていると言われたような気がして、面白くなかったんだ。あぁ、そう! ただの嫉妬さ! しょうがないだろう、僕はカナリアを愛していたんだ。誰かを愛すると、必ずそこには妬みや憎しみが絡んでくる。人間というのは不思議な生き物だね。誰かを愛しているのに、どうして反対に、誰かを憎んでしまうのだろう。

 ……あのカラスが憎らしくて憎らしくてしょうがなかったんだ。僕のことをあんなに慕ってくれる可愛い弟子なのに。持っているものを全部全部伝えたいと思っていたのに。あのカラスが、今も忌々しくて仕方ない。


 でも、事実、カナリアがアトリエに足繁く通い、僕と顔を合わせるのと同時に、カナリアとカラスも、あのアトリエで顔を合わせていたんだよ。朝、昼、夕方、授業の空き時間、あのカラスはいつだって僕のアトリエに居たからね。僕がカナリアに会えば、あのカラスだってカナリアに会うことになる。そしてきっと、僕がカナリアを愛するのと同じように、あのカラスも、カナリアを愛していたのだと思う。


 だけど僕は、カナリアがあの薄汚いカラスを選ぶはずがないと思っていたんだよ……。確かにね、赤に関して彼より劣っているけど、他のことは全て僕の方が上手くできたんだよ。青空の絵だって、新緑の絵だって、廃墟の絵だって、都会の絵だって、田舎の絵だって、何でも、僕の方が美しく描けたんだから!


 でもある日ね、見てしまったんだ……。
 あのカラスが、僕のカナリアを汚している所を!


 その日、僕は個展の打ち合わせで半日留守にしていてね、アトリエに戻ってきたのは夕方近かった。真っ赤な夕陽の見える寒々としたアトリエで、色白のカナリアの軀と、色黒のカラスの軀が交わっているその姿は、反吐が出るほどおぞましく、この世のものとは思えない、とても不気味で、最高に卑しいものだった。


 だからだよ、僕がカナリアを閉じ込めたのは。カラスに食われてはいけないだろう? カラスというあの真っ黒い鳥はね、小さな小鳥を食べてしまうんだよ、全く恐ろしい生き物だね。


 僕がカナリアを閉じ込めた部屋は、作品置き場にしようと思っていた部屋だったのだけど、まだ何も準備をしていなかったから、ガラ空きでね、明かりさえつかなかったよ。あまり陽の当らない、ひっそりと冷え切った部屋。僕はそこに、彼女を閉じ込めた。

 カナリアを閉じ込めた時、僕はとてもとても幸福だった。やっと、彼女が僕のものになったような気がしてね。その美しい歌声が、容姿が、僕のために存在しているかのようだった。それでいいのだよ。彼女は僕のために存在し、僕のために歌い続ければ。僕も幸せだし、カナリアだって、こんなに君を思う僕がいれば、それだけで幸せだろう?


 でもね、カナリアはあの部屋から出ようとするのだよ。懸命に

「出して! 出して!」

 と叫んでは、部屋のドアに自分の華奢な体を叩きつける。まるで小鳥が小さな鳥籠の中で、翼をばたつかせているようだった。あの美しい声を枯らし、その細い軀を痣だらけにして、そうするカナリアは、なんとも悲劇的で、それはそれは最高に美しかったんだけどね。

 でも僕は、彼女を部屋から出さなかった。その鳥籠から出したら、またあの薄汚いカラスの所に飛んで行って、食べられてしまうから。もう誰にも見せなくていいんだ、その美しさは。誰に聞かせる必要もないのだよ、その歌声も。だから僕は、絶対に彼女を逃がしはしない。


 閉じ込めて幾日か経つと、彼女は歌を歌うようになってね。あの歌だよ、発表会で歌っていたひどく悲しそうな歌。僕がとっても好きな、思考を鈍らせ、感情を排除していくような、あの歌だ。


 その歌を聞いてね、僕はふと思ったんだ。
 赤い、お空の絵を、描かなくちゃ、いけないって。


 思い出したんだ。あの日、あのアトリエで、カナリアがあのカラスの絵を指差した時、

「私は赤が好き。赤いお空の絵が好き。赤いお空の絵が見たい」

 と言っていたのを。

 でも、よく考えれば、彼女はそう言っていたのかな……? あの歌が、僕の思考を改竄したのかもしれないが……。いや、でもそれは、まあいい。とにかく、僕は彼女のためにたくさん赤いお空の絵を描かなくちゃいけないと思ったんだ。


 でも、僕は赤が上手に作れないから。赤を上手に作れないと、美しいお空の絵は描けないだろう? だからこそ、極上の赤を探したんだ。そう、それが、カナリアの軀に流れる赤だった。美しいカナリア、彼女の持つ赤は、さぞかし美しい赤であることだろう。

 ぐさりと彼女の胸を一突きにした時、何日も閉じ込めて、衰弱しきったカナリアは、抵抗すらしなかったよ。ぐったりとしたカナリアの軀から溢れる赤は、予想通り温かく、麗しい赤だった。だから僕は描いたのさ。世界で最も美しい赤、そのカナリアの赤で。赤い、お空の絵を。


「ああ、これは、なんて、悲劇的な美しい空なんだ」

 カナリアのおかげで、僕の描いた赤いお空の絵は、今までに描いた赤の中で、もっとも美しい赤の絵になった。だけどね、絵を描き終えた時、僕はどうしようもなく哀しかったのだよ……。カナリアの歌が、途切れたから、思考や感情が戻ってきてね……。僕は、あのカナリアのために、あの絵を描いたのに、彼女がその絵を見ることはなかったのだから。


 ……これが、内田翠を殺害した一部始終だよ。君がずっと知りたがっていたことだ。……ほら、もう何も聞きたいことはないだろう。話すべきことは全部話した。だから早く此処から出て

 え? どうして内田翠をカナリアと呼ぶかって?

 ああ、そのことか。彼女が発表会で歌っていた歌の名前が、『カナリア』と言うのだよ。その歌は、美しい小鳥が鳥籠に閉じ込められて嘆き悲しむ苦しみの歌なんだそうだ。彼女にぴったりな歌だと思わないかい?

 だから僕は、彼女をカナリアと呼ぶことに決めたんだ。


〈おわり〉


*最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
有料となりますが、近日中に“あとがき”を公開します。
楽しみにしていてください^^



缶コーヒーをお供に働いているので、1杯ごちそうしてもらえたらとってもうれしいです!最近のお気に入りは「ジョージア THE ラテ ダブルミルクラテ」(160円)。今日も明日も明後日も、コーヒーを飲みながら仕事がんばります!応援のほど、どうぞよろしくお願いします。