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始まりの所感|雑記

春が二階から落ちてきた。

……これは伊坂幸太郎の『重力ピエロ』の冒頭だ。
兄弟の泉と春が、家族の在り方をめぐり、迷いながらも道を切り拓いていくミステリーである。
この作品は映画化もされているが、伊坂幸太郎の瀟洒な言い回しを楽しむためにも、絶対に本で読んだ方がいい。

小説の中でも一部触れられるが、冒頭というのは、存外印象的なもんだ。
本屋で本を探す時、まずはタイトルをみる。次に装丁。文庫であれば背表紙の概略を読んでからパラパラとめくる。そこに一行目から目を引く文があれば、それをレジカウンターに出す。
本を選ぶ時は、大体こんな感じだろう。
どのような冒頭がお好みだろうか。有名な文学作品から引っ張ってくる。

例えば、

私はその人を常に先生と呼んでいた。

夏目漱石『こころ』

例えば、

メロスは激怒した。

太宰治『走れメロス』

例えば、

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自みずから恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

中島敦『山月記』

長かろうが短かろうが、「おう、どしたんや?話聞こか?」という気持ちにさせてくる。
文豪が全員こうであるという訳ではないが、しかし、ここのインパクトは、ファーストコンタクトであり、コミュニケーションでいうところの最も重要な“初めまして“だろう。


──4月から、新しい職場になった。
この1年の間に、目まぐるしく環境が変わってきた私にとって、何度目かの佳境である。

昨年の6月、前職の契約が年度末で満期を迎えると通達を受けて、転職活動を始めた。
履歴書と職務経歴書を書き、転職サイトに登録し、2社のエージェントと話をつけた。
7月に母の手術のフォローをしつつ、8月に書類選考と面接にこぎつけ、内定を獲得。
9月に引越し先の選定と母の実家の売却に伴う片付けを行い、扁桃腺を左右とも腫れさせた。
10月に解約やら契約やらをして引越しを完了させた後11月1日から研修が始まる。
1か月でCCNAを取得して12月には常駐先を決定し、1月に3ヶ月だけのスポット業務を開始した。
そしてやっと長期契約業務に就いたのが4月1日というわけだ。

この1年の間に、何回“初めまして“を繰り返しただろう。
赤の他人と話す機会が、あまりにも増えた。

以前の私は、どうしようもなくコミュ障だった。
それはもう笑ってしまうくらいコミュ障だった。
しらない人と話す時は喉がきゅっとなって、声が小さくて吃音で、印象の悪い挨拶しかできなかった。
音楽現場では随分と叱られたものだった。

しかし、ある時、私は最初の挨拶こそが最も重要だと気づいた。
人に”初めまして”の挨拶をされた時に、不快と感じるか愉快と感じるかで、その人と上手くやっていけるかが大体わかることを知ったのだ。
相手に、「この人と働きたくない」と思われてしまったら、職を失ったも同然だ。営業活動や接客業、クレーム対応、接待、一般事務、イベント運営……いずれの場合も、絶対につまらない人間だと思われてしまってはならない。“初めまして”の際は空気を読み、笑顔で、尚且つ少し隙を見せること。後はなるべく大きい声を出すこと。

なんとかここで上手くやっていけるかもしれない、と手応えを感じたところで、やっと私の冒頭は区切られた。

正直言って、めちゃくちゃ疲れる。現にめちゃくちゃ疲れている。
環境の変化のみならず、新しい業務や自己研鑽の時間、昼食の取り方や通勤方法、全部に順応していかなければならない。そして資格試験も近い。

もう一度言わせてくれ。
めちゃくちゃ疲れている。
とにかく優しさで包み込んでもらいたいし、全力で慰められたい。
よく頑張ってるよ、と言われたい。
あわよくば、美味しいご飯を食べに連れて行ってほしい。
古き友と、あるいは尊敬する年長者と久闊を叙したい。

ヤケクソで外に出て当てもなくぶらぶらすると、突風が吹いて何かが空から舞い降りてくる。桜の花びらだったみたいだ。
春が二階から落ちてきた、か。ふむ。

視力が二段階くらい落ちてきた。

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