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205号室に暮らした

#テレビ

朝起きて、カーテンを開けるとベランダの柵に脚立が掛かっていて、大家が上ってきた。そんなことがあった。嘘だと思うだろうが、本当の話だ。普通なら事前に連絡があって、紙切れの一枚でもポストに投函されていようものだが、全くの突然である。いや、連絡を忘れたとしても、上る前にひと声かけてくれれば済む話である。だが、大家は突然上ってきた。70歳は越えているだろうに、よぼよぼの足で屋根へと上っていく。何をしに来たのか、どうやらアンテナを直しに来たらしいのだ。

一週間前、テレビが映らなくなった。外はまだ昨日からの雨が降り続いていた。明け方だったろうか、雷の音が激しく続き、ドーンと地響きがして、これは近くに落ちたなと思った。あまりに激しい音だったので、念のため、我が家の電化製品が動くかどうか確かめてみた。電気は点くし、扇風機も動く。電話も大丈夫。だが、テレビが映らない。白黒の画像に時折ノイズが混ざる。あ、壊れたかな、と思った。

とはいえ、学生の身分ですぐにテレビを買い替えるという訳にもいかず、しばらく放っておくことにした。それでも気になって、アンテナ線をいじってみたり、電気屋に行って聞いてみたりしたが、面倒な学生だと思われたのだろう、店員に軽くあしらわれた。

毎日テレビを見たい訳でもなかったが、どうしても見たいドラマがひとつあった。どうにかならないものかな、と再びアンテナ線をいじってみた。実はこのアンテナ線、今では(そして当時でも)考えられないが、差し込みタイプではなかった。電線の先からコイル部分が裸になるようにして、UHFとVHFのそれぞれに巻き付けるようなタイプで、正式名称はよく知らないけれど、2000年代にもなってこんなものを使っていたのはこのアパートくらいだろうと思う。とにかく工事業者にでもなった気分で、感電しないよう気を付けながら数時間いろいろやってはみたが、テレビは映らなかった。放っておくとか言っていたのは何処の誰だろうか。結局、貴重な休みを潰してしまった。ドラマは見られず、憂いのうちに目覚めた次の日。

大家が上ってきたのである。朝からガタガタと屋根の上で作業が始まった。出掛けてしまったので、作業がどんな具合に進んだのか知らないが、夜、家に戻ってテレビをつけたら普通に映った。何事もなかったかのようにアナウンサーがニュースを読む。一週間が幻のように思えたが、しかし、アンテナというのは直せるものなのだろうか。大家は何をしていた人なのか。今、屋根の上に立っているアンテナはどんな様をして立っているのだろうか。そう思うと不安になり、明るいニュースの傍らで不安だけが残った。そしてこの不安は翌年まで延々と続くことになるのである。



後記:これで3話目、ということで一旦区切り。続きはまた、しばらくしてから書こうと思う。こんなふうに学生時代を振り返ることもなかったのだが、意外と細かなことまで覚えていて、文字によって辿れる記憶もあるのだな、と驚いた。なぜかこの時期、自分が映っている写真がほとんどない。住んでいたアパートもずいぶん前に取り壊されたようだ。寄る辺ない記憶だけがこの文章を成り立たせている。



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